kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

去人たちレビュー応答:その2

去人たちのレビューを公開していただいた方には、感謝している。ちょっと誤解されてしまうのではないかと思い、先に書いておこう。
<去人たちの悪口レビューがあるのですが、これこれについてどう思いますか?>
というシチュエーションをよく思っている。


去人たちは良くできた作品だと思っていない作者がいるとおもうか? お前はアホか?
「いや、だって<敢えて>アホをする人だっているでしょう?」
「なるほどなるほ……………………………………………………………………で?」
「で?」
「で? でっていう? つまり、あなたは真のアホなんですか?」
「ああ、そういう意味で言うと真のアホです。ありがとうございます。Kowa@suhito14歳でございます」

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今回はこちらのレビューを取り上げさせていただきます。

Soundwing フリゲレビュー - 去人たち 完全版Ⅱ


独自の開発環境で作成。タイトル画面がスタイリッシュ。

独自の開発環境が必要だったのは本当にへんな考え方だったように思う。
いや、最終的に本当に必要だったんだけど。
表現ってできることが提示された瞬間に表現なんていえなくなっちゃう。言語で表現可能な範囲って規程されちゃうと、言語もつまらなくなってしまうよね。

新事実が出てきても詳細に説明しようとはせず、なんとなく匂わせる形で提示していくので、自分なりに補完しながら読まなければ訳がわからなくなります。

あー、わかるわかる。
あれやってくと読者死んじゃう。誰かがさ、きちんと一線を画して説明台詞を言わなきゃならないと思うんだ。説明台詞ってどんなに毒を消しても説明台詞なんだけどそれをやらなきゃならないんだよね。それやらないって、読者の殆どは去っていく……っていうか、去る前にググったらよいようなきもするけどね。

主人公と翠子が熱い!

結局、今年の夏コミ(2016)に
主人公×翠子(R18)
はあったんですかね……
快楽原則と生殖行為の間の非実存的結合って本編でも書き得ていないことなのでめっちゃ気になるし是非見てみたいんだよね。
これってSFの中でもメジャーだしね。星新一は子どもが生まれなくしちゃったけど、それでいいの?
みたいな。

カオスなこのゲームにふさわしい終わり方もグッド。美しさすら感じさせる締め。

この感想は正直嬉しい。
明確な回答はないまま、「その〆」にて閉じるわけだが、そこで閉じられた何某かは一体なんなんだったのだろうと、今も私たちも思っている。
終わり方はありふれている。その過程に注目して欲しい。ほんとうに、その結論で納得できる過程であったろうか?

とにかく世界観の作り方、そして理解しきれなくても雰囲気だけ黙らせる文章のパワーがすごい。


また、賛辞をいただいた。たぶんこう感じられたのではないか。
「訳が分からないが、トンデモない自信だ」

おそらく、かなりの大きさを占めるのだろうと思うが、我々が我々なりに気色のよい意見を補足できないかと考えた。
わたしたちはあなた方を受容状態にしようとはしなかった。読み手を受容状態にしない作品とはなにか? 不条理作品である。
「太陽が眩しかったから人を殺した」
という罪人が終身刑になって誰が同情できるであろうか?
これはカミュの異邦人だが、かの作品については被告の言術が少なすぎて弁護が難しい。それが高尚な文学なんだろうけどね。
不条理の説明責任という点では去人たちのほうが優れている(=趣がない)といっていいのではないか。

「人を殺すのに理由はない」というのと「人を殺すのには、些細な個人的な理由があればいい」

というのは対比として大きな違いがあると思う。

とぼけた主人公の発言を中心とするコメディ面は面白いし、翠子は良い萌えキャラ。終盤のアリスも可愛い。

翠子やアリスはいったい、どこに存在しているのか?
ちょっと、考えさせようというあたりが、あざとくて最低だと思ってしまう
とか、言及しちゃうのがもう絶望的。




レビューされるのすげえたのしいね。


異邦人 (新潮文庫)

異邦人 (新潮文庫)

去人たちレビュー応答:その1

みなさん、ユニークなレビューを書いてもらっているので、是非個人的に応答したいなと思ったのでかいていきます。

今回取り上げるレビュー

ためておいたレビュー放出! い~びる☆あいっ! io 止マナイ雨ニ病ミナガラ(体験版) 去人たち(と「Χ:Khi ~サイレンス・イヴ~ 序章」?) エイト・ストーリーズ 第七号車


このレビューでは最上級の褒め言葉をいただけた。

フリーゲーム界の電波ゲーを選ぶとすれば、きっと上位に食い込んでくる

正直、この手の賛辞は半分嬉しくて半分残念だったりする。なぜなら「電波」という現代用語が指示する対象が非現実性を含んでいるかのような印象を醸し出しているからである。
とはいいつつも、

電波ゲームというより、雰囲気を楽しむゲームというか、独特な……カテゴリーわけを拒否するゲームというか、独自の世界を構築しているように思う。

という個人的な感想の部分に深く楽しい気分になる。
わたしたちが「ドグラ・マグラ」を説明するときに電波といって導入したがるのと似ている。ここではこの後者の感想についてとくに言及していこう。
正直、去人たちは筒井康隆のオマージュである。であれば、独自の世界感などはない。文体模写やリスペクトがそこにあるだけで形式的にはなんら新しいところはない。それが新しいとか独自とか思えるのはそれはただ、「筒井康隆が新しい文学」をやっていただけのことだ。そしてわたしたちは、その新しい、いや、「新しすぎて腹を抱えて笑った」形式をなぞっただけだと思う。去人たちⅡなどはついニヤニヤしてしまうセクションの集まりでできているはずである。それは模倣であればなおさらだが、模倣以前ですらニヤニヤできるものになっていてほしいと思う。

応答は一旦おいておいて

ただ、翠子がかわいい。そして声がいい。

ノベルゲームの一つの醍醐味。
周防ハルカさんいろいろやってはるんや! ってしらないで依頼してた自分たちはすごく反省してます。
周防ハルカさんにとても感謝しております。
ほかのボイスアクターの方もそうですが、長台詞とかちょっとおかしい語尾とか気にしながらアフレコしてくれたのはきっと大変やったろうなとおもって、ここであたらめて感謝の気持ちを。

虚航船団 (新潮文庫)

虚航船団 (新潮文庫)

kow@suhito が双星の陰陽師のOPをそれとなく書く

kow@suhito は「双星の陰陽師」を一切、なにも知りません。ですので、ファンの方には不愉快な記述があるかもしれないので、そういう方は、下記のコンテンツへジャンプしてください。

筒井康隆 - 公式サイト

え? デリダってだりだって?

そのたびごとにただ一つ、世界の終焉〈1〉

そのたびごとにただ一つ、世界の終焉〈1〉

オープニング

京都

京都ってさ、やっぱり碁盤の目のようになってるよね。あれってすごくいいんですよ。マッピングしやすいし、迷うことがすくない。
大阪なんてだいたいにおいて都市計画がメチャクチャなので、北に直線道路だとおもったらもういつの間にか真西にってるわけ。あれはほんとうに良くない。今の進行方向が北だとおもって自信満々に右折したら、その実方角は南だからね。もうやんなっちゃう。えっ? 陰陽師がどうしたって? 陰陽師って間違ったエロいイメージしかないんだよなあ。たぶん、ほとんどがあかほりさとるのなんかのアニメの影響だとおもんだけど。
そのイコン的な、陰陽師がつきまとう3人みたいのはさ、運命とか宿命とかっていうのは、人間の自由意志を軽んじているので嫌いだって、いってる架空の人物がいたとおもうけど、まあ、それはそうだよなと思うので、そこに対しては抵抗していくのかいかないのか、楽しみだなと思う。
※原作のことはなにも知らずに書いています

子どもの二人

絵面から判断して何がわるいのか。さあ、絵面から解釈してみようか♪
めっちゃ、ほこりっぽい。完全にこれはアレルギー性の反応である。かくいうわたしもハウスダウトでくしゃみはとまらなくなる。これに至っても生理反応でありいたしかたない。ところで、格子状の影ができてるんですが、どういう窓なんですかね?
右手にめっちゃ包帯まいてるけど、ちょっとほどけてるのはどういうことなんだろう? っていうか包帯なのか? ここにきて包帯のゲシュタルト崩壊である。包帯が象徴として使用されているに違いないと確信するまえに、いやいや、そんなはずはないと自分自身でたしなめてみる。
 っていうかあれ、包帯とはかぎらないよね。マスキングテープかも知れない。それは語られていないのだから確定することはできなのだ。
あっ、わかった。察した。これはあれですよね、象徴としての包帯ですよね。ミサンガとかウッタラ-サンガみたいな、なにか呪術的なにかに違いなくて、それがうまくいかなくて、絶望の号泣ということに違いない。
しかし、ほこりっぽさによる発作的アレルギー反応っていう線がすてられないのが解釈をより複雑にしている名シーンである。

少女は棺桶にすがりついて涙を流す

ここでは読み手に対するミスリードを提供していると考えていいだろう。大小2つの棺桶をよく見て欲しい。一番大事なのはこの仕上がりである。それぞれの木目調はまさに完璧であり、これに一切なんの価値もなくなった死人をいれて、埋葬するなんてなんてもったいないことだろう。(おそらく)陰陽師的な因果を拒否し、人間的な自由意志を確信し棺桶職人に弟子入りした少女は、親方のつくった棺桶を目の当たりにして自分の未熟さを痛感し涙するシーンだと想像する。
結果、自由意志をすてて宿命や運命に流されるまま少女は棺桶職人を諦める、という流れになることが想像できる。
ちなみに、このシーンにおける月明かりに照らされた木の影のような演出は、マイナス×マイナスがプラスになる、という秘められたイメージであり、あらゆるネガティブ性のなかにおいても失われない実存としての人間性を暗喩していることに誰もがすぐに気付くだろう。

金髪美少女は日本の神社で悪意を抱く

金髪美少女は表面的にはきゃぴっ☆としているが、腹の中では恐ろしいことを思い描いている、ということをこの中で描いている。これは非常にレイシスト的な表現であるとおもいがちだが、ちょっと待って欲しい。光源の位置と金髪美少女の位置から、鳥居の影はどう考えて別の影である。あぶないあぶない。また、ミスリードに誘導されそのまま怒りの矛先を自らのコンプレックスに起因する読者中心の解釈にとらわれるところであった。まさにこの演出自体が受容者へたいする痛烈な批判であると解釈する。
さて、ところで、この光源からこの影ができる経緯にあたり、科学的な検証を実施してみたが、カメラの手前に紙人形的なものが存在していることがあきらかになった。
あ、LIMBOおもしろいですよね。

蛍・水辺・三本の竹

当然だが、これらはすべて隠喩のは明白である。なのでリアリティを軸に現実的な解釈をしても快楽は一切発生しない。竹が水生植物でないことをいくらたらたら文句をいったところで、誰も得をしない。三本の竹がとくに光源的に強調されているのはなぜか? まずは蛍がそこを照らしているからだ、と考えるべきだろう。ただし、物理エンジンの精度などという問題をこえて蛍の位置関係と光源はどうかしている。であるから、この空間は非ユークリッド空間であることはまずの前提となるであろう。簡単にいえば、この世ならざる世界である。
また、蛍というとくに日本的な表現を利用している点でもその点についても論拠となるだろう。蛍は、人の霊が変じてなったものと考えられていたわけであり、タケはいまでこそどこにでもあるが、日本古来の文化として呪具として利用され、神霊が宿ると信じられていてどにでも手に入るものではなかった。配置としての人と蛍と竹のなかと、コントラストの妙がこの物語の解釈のしかたを仄めかしている。

夕日と巨人

夕日と巨人とレンズフレアレンズフレアというのはメタフィクションのなかでとても難しい扱いである。レンズフレアが描かれている以上、この像は肉眼ではないということを表している。客観的な世界のなかで、日常世界に巨人がたちあらわれることをどのように感じるべきか、ということの方向性を示唆されていると感じざるを得ない。あ、ということは、安心してみて良いシーンなのかな、と考えてみてはどうだろうか? レイアウトの良さとか色合いとか素直にかんじたらいいのである。物語や意味は構成を考えるのではなく、感じるシーンなのだと。
ふう、と呼吸をはく。わたしはそのとき、棺桶屋の職人とかいってたけど、本当にあってたかなあ、などと少々現実的な疑問が脳裏をちらをかすめたが、個人的な問題なので黙っておこう。

ふたたび水辺からお送りする二人

ってか、おい、結構、水深ありそうだけど! なんていうのは、やぼ。アートが分かってない。たとえば、映画で水から這い上がってくるシーンなんかを思い起こして欲しい。現実的な水の表現なんてヤバイのである。髪の毛なんかびっしょびっしょでもうまとわりついて、誰だかわからないに決まっている。
であるから、このシーンもまた、非現実的な象徴的なシーンだと解釈できる。
現実的はハウスダストアレルギーの少年と、現実的には棺桶職人に弟子入りして挫折した少女は、この非現実的な空間にたまたま居合わせて、そして互いが互いに相手を求めるのである。まさに意味の垂直な大騒ぎであると言わざるを得ない。受け手は自分の今までの解釈を確信するか疑うかの自由を実感しながら、ふとサブリミナル的に入り込んでくる、殺人的な縦巻きロールの髪型の女性はいったい、いつ登場するのであろうかと、ワクワクすることすらできるのである。あるいは、あれは幻であったのかもしれない、などとと自分を疑うことすら快楽である。

そして戦闘へ……

さて、わたしやあなたがたの期待はどうあろうと、物語は進行をとめない。直視しろよ、現実を、と言わんばかりである。
このあたりに関しては前回のニコ生で @yama_ic さんが見どころをつぶさに語ってくれているので、補足することは無粋というものだろう。この二人の少年少女が協調して巨人を斃すところを映像の中で満喫できる時間である。同じ時間を別カメから別の角度で見せるのは胸熱だと実感する。

成熟した少年少女は過去の自分たちに手をさしのべる(回想は死亡フラグ

ハウスダストアレルギーがしんどいのかもしれないし、棺桶屋に弟子入りして挫折したのが本当につらかったかもしれない。だけど、いま未来の自分から過去の自分に手をさしのべて、それでいいんだといわんばかりである。代償行為、通過儀礼のような表現なのかもしれないが、これは時間的な倒錯であり、リニアに進む時間の中で解釈は自由で或るということと同時に解釈がいかに恣意的であるか、という警告メッセージである。なぜなら、このシーン全体が死亡フラグを予期していて、これはドラマツルギー的な予定調和であるからである。

最後に二人は幸せなキスをして終わる

嘘だけど。
今回、目については語らなかった。アニメをみるとき、個人的にはキャラクターの目を追うことがしばしばある。だが、今回は個人的な感想はどうでもいいと考え意識的に除外した。
まあ、これも嘘なんだけどね。

まとめ

この、アニメのOPをみて感じたことと、どう解釈したかは大きな隔たりがあるということだけはここに書き記しておこう。
みんなも双星の陰陽師をみて、感想を書こう!


ではまた、次のオープニングで。

我々は或る火炎放射器を手にしてしまった。我々はそれを「譲渡すべき/したい」誰かに出会う。

放送大学を聞いていてはっとした。英語には一般名詞が特定の個体を指示しない。シニフィエとかシニフィアンって日本人にピンとこないのってそういうことなのかもな、って思ったのです。
日本では、「猫」は抽象性、具体性の両方を意味し得る。猫といったときに具体性を持たない猫のイメージを持てるし、これは自然に思える。
しかし英語に於ける "cat" は猫全体を示す抽象的なグループとそうだ。ある固有の猫を取り出すために、"a"、"the"、"that"、"my"のような決定詞をつけて具現化させる。
えっ? この前置きがなんなのかって? そんなふうに聞かれても応えられない。これが何かの前置きだと思ったのはあなたなのでしょう? わたしはわからないです。

去人たちは、常に「自分でなくなりつつある」という過渡状態を意味している?


一切合切を焼き尽くして灰にする、普遍的な真理ってそういうもののような気がする。そして、哲学者は普遍的な真理ってなにかを考え続けている。
でもそうなら、すべてを焼き尽くす最強の火炎放射器を開発するエンジニアと哲学者の違いはなんなんだろう?
良心? 決意? 倫理観?

それは――

って、本当のところ何が違うんだろう?
あらゆるものを焼き尽くす手段と位相が違うだけで、それらを探し求めるプロセスは哲学者もエンジニアもたいした差はないんじゃないだろうか。
そもそも「焼き尽くして灰にする」なんていう一方的な言い方は、我々が「火炎放射器」というメタファーを話題誘導のため恣意的に選定したためだ。当人たちにしてみれば「世界を遍く照らす装置」といったほうが近現代的な合目的性からいっても、抽象度からもしても、ポリティカル・コレクトネスを気にするはてな界隈以外にとっても、適切かもしれない。
「一切合切を焼き尽くして灰にするなにか」≒「世界を遍く照らす装置」から逃走する手段の一つが境界に立つ、という方法なんだと、わざわざ言う。
ご都合主義で、ただそうでないというだけの消極的な意見しかもたない彼らは、誰からも相手にされないが、彼らは彼らで「一切合切を焼き尽くして灰」にしようとする何かや「世界を遍く照らす装置」で満たそうとしている何かよりはマシであると自負している。
それは本当に都合がいいなと思う。

去人たちプロジェクトは enty をはじめました!

K2Ceeでは去人たちの開発支援をお願いしております。


enty.jp


entyのアカウントをお持ちでなければ、下記の紹介コードから enty のアカウントを作っていただけるとありがたいです!
https://enty.jp/signup?invitecode=gpoIMbSw

お金を出すのはちょっと……という場合でも紹介コードからアカウントを作ってくれるだけで助かります。
せっかくだから、entyでK2Ceeをフォローしてくれたらうれしいです。
さらに、支援もするぜって方は開発陣が喜んでとびあがって天井に頭をぶつけて目を回します。

また、enty では支援者向けに去人たち上級者用コンテンツを不定期で配信しようかと思っております。
支援してもいいかなっていうお気持ちがあれば、ちょっとしたおまけという感じでご覧いただければと思います。
第1回目はサンプルとして全公開にしておりますので、よろしければご覧ください!

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今後とも、K2Ceeの去人たちプロジェクトをどうぞよろしくお願いします!