去人たち開発ブログ

同人サークルK2Ceeが去人たち開発についての記事を掲載してきます!

週報−徒然断章形式

わたしは似非原抑圧を21世紀初頭に体験したわけだが、スパイラル構造を呈しはじめたわたしの自我は全体、どうなっているのかと時々思うときがある。

とりあえず、なるたけそういうわけのわからない、金にならないことは考えないようにはいているのだけど、ぼんやりしているときに思うのはそういうことばっかりである。
ぼんやりしながら思うのである。
望んだ環境ではないにせよ、ここはいま居るべきなのだと思うこともあるし、似非原抑圧以前が居るべき場所なのだとおも思うときがあるし、似非原抑圧の中でなくなってしまえば良かったのではないかとも思うときがある。

その似非原抑圧を境として、去人の傾向は45°傾いたし、倒壊しつつある。

あの似非原抑圧はなんだったのか。

去人が45°傾いたことはそれほど問題ではない。
それはそれで、多くのいやらしい問題点を露呈はしたが、「作品」というフレームに押し込められている限りにおいて、これは似非原抑圧との関連性において乖離している。

これはごく個人的な問題であり、去人はごく個人的創作の現場を鳥瞰的に観察しているだけである(その逆転構造を転置し順当な構造へ回帰するための論理経路はさらなる鳥瞰によって慎重に寸断されている)

似非原抑圧以後、わたしは何もかわっていないと思っていた。
何もかわらず、ただ継起的にイベントがおとずれ、都度処理していく今までのやり方が繰り返されるのだと思っていた。
満たされていたことが満たされなくなった。でも、本来の原抑圧以降において、それはなんら変革を意味しない。
でも、似非原抑圧は本来のそれと逆のプロセスで、わたしに反自我らしきものを発生させたのだと考えている。揺るぎないと思っていた、価値観を逆転させるだけならまだよかった。それは価値観を放棄させてしまったのである。

人間らしく、より人間らしくあろうとし、それが破局したとき、そういう根底からの解体をわたし自身実行しようとした。


快楽原則と現実原則の調停を超克し、その涅槃原則に従っていくわたしは、このままではまともなところまでいくことはできない。
現時点での、対症療法はその効果を動機付けによって減ずるという仕方での延命処置にすぎない。

フロイドの零への回帰の思想が受け入れられなかったかというのは、<目的なき欲動>であるからであり、そういった例外を認めることは大系の自壊となりえないからでもあろう。
理論として涅槃原則の有無は、いずれにせよ、わたし自身の解決にはなりはしないし、むしろそういったもので自分の状態を規定できるものでもない。

中立地帯もエスケープゾーンもない現状のわたしは、とりあえず、常にアンテナを張り巡らせて自分を防御するしかないのだが、これも孤立無援ではそう長くは続かない。
暗礁にのりあげる...



そういえば、なんやかんやで、Linux(Fedora)をインストールしたんだが、i810のせいでなかなか苦労した。どうもカーネルを最新にしたら動いたのだが、そうでないとディスプレイがまともに表示しされない。
再描画されなかったり、ノイズ画面になったりで。とりあえず、8bitカラーだとなんとか動いていてくれたので、それに設定。その後、yumでupdateを1日がかりで行い、ディスプレイの設定で何とかまともに動いてくれた。それでサンバを設定して、なんとか普通のPCらしくはなった。元のマシンが元のマシンだけに、レスポンスが悪いが、これは仕方ないとしかいえない。アナクロではあるけれど、やっぱりXなんてないのがUnix系のOSではないかなぁ。
コマンドを叩きまくっているサーバー管理者はいつだって、どんな問題にも対処できそうな雰囲気を醸し出している(実際にどうかはわからない)。

さらにjavasubversioneclipseをいれて開発環境を整える。
もう、これでD言語Hello Worldがでりゃいいやという感じ。
Windowsしか使ったことない人間は、Linuxとは親和性がなかなかとれないが、でも一番最初にWindowsを使ったときだって、なにがなんだかわからなかったのに比べれば、結構セカンドOSとしては良いと思う。Windowsを使ってきたからこそなんだけど。。。