kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

音楽と去人

こういうのって結構、キチガイ扱いされるので誰にも言わなかったが、わたしは音楽がないと死んでしまうのである。音楽はいい。本当に。
去人の開発も私たちの音楽の歴史である。
大葉るか奥華子は、かなりしっぽりとはまった。
別にわたしは、世界中の音楽に精通しているわけではないし、バッハの全202曲を耳に付けて持ち運んでいるわけではない。


抒情的な歌を聴くとすこしほっとするし、またちょっとほろりとしたりする。
去人の話の中にあるエピソード、セリフには多くの歌の歌詞が写像されている。
これは、別の楽しみ方として大いに面白いと思うのだが、たぶん誰もわからんとおもう。

わたしが著作権を持っていれば、それをテーマソングズとしてCDにしたいぐらいである。わたしのお気に入りの歌ばかりである。

One more Time...はよく歌ったモノである。
映画「月とキャベツ」を見たのはいつだったろう。


解消出来ない欲動を、わたしたちはカフカ的欲動とよんで、馬鹿にしていた。そう馬鹿にしていたのである。世の中はカフカ的欲動で一杯だ。それはもうカフカ的ではなく、常識なのだ。

わたしは過去の2002年あたりの日記は cocco だらけだ。一体、そこに何を見出したのか、見出したかったのかは分からない。いつ読み返しても、こじつけと病理的上塗りでなんにもつかめていない感じがする。でも、あのころ我々は何かをつかもうとし、何かを掴んだと思いこんでいた。
そこを最後にcoccoについて語ることはなくなる。そこで、我々はこと切れたからだ。眠りからさめたといってもいい。

そこが、去人の最期であったように思う。


coccoの活動停止はさして問題にはならなかった。我々の中ではデリダよりもあとに、coccoは死んだのだ。こっこ、あっちゃん、ひめは、長い髪を残し、裸足で去っていった。


歌について、もう少し。
ライブに行くと、少し変な気分になる。だいたいアルコールが入っているし、浮遊感がある。観客の熱狂、静聴はどちらかというと違和感が漂う。わたしは、いまここにある歌を聴いているのではない。今の楽曲が過去の楽曲から否定される歌を、、、逆位相の音を聞いているような錯覚である。今、ここにいる歌い手は挑戦を受けている。それに立ち向かう姿は涙がでるほどに美しい。未熟な歌手ほど、それが顕著だ。つまりアマである。彼らが歌おうとしていることが、すでに歌われていることを彼らは必死に否定し、自分の個性を主張する。脱構築の失敗ににた、それらの世の中に知られることのない、そのときだけの、その場限りの声色は、恐ろしく鋭く脆いわけだけど、<失敗>はそれとして、繰り返しがきかない失敗は、それを度外視すれば(その場限りではあるけど)成功なのである。

そういった抒情的な感想をのべてもいいかな、って思うのがライブの醍醐味である。冷静ならば、誰だって失敗には断固たる態度で臨むし、酷評も出来る。技術一つ一つを手にとってつまはじきにすることも出来る。