kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

脈絡のないシナプスのつながりから生まれるテクストについて

わたしはバイクが好きで、何台も潰したものである。
わたしのようなバイク好きがヨシムラのパーツを購入しようというとき、熱いモノがこみ上げてくるのを感じる。
わたしは、ねっからの技術屋なのだ。
吉村のような技術屋になりたいと思うし、その熱い魂を少しわけてもらえるような気がする。


わたしのように、知識に裏付けられない技術者はどうしてもセンシティブになる。
勘に頼って、いいものができたぞ、というセンスで立ち向かう。

知識を摂取することなく、象徴のレベルで感得し、それを組み込む。
バブリングと同じことである。シニフィエシニフィアンの二項構造を放棄している。
原始的欲動の中でそれを体現する。
ただし、わたしたちは本当に胎児まで退行した自我で開発を行っているわけではないから、シニフィエシニフィアンの構造は本当には解体はできない。
退行という点では、他者と自己を区別できるが、自己はまだ存在していない。質料的人格による開発である。


わたしの感覚からすれば、短編の傑作こそが本当に良い作品である。
冗長にすればするほど、物語は物語自身の韜晦に躍起になり始め、本質を見失う(または、見失わせようと企図しはじめる)。
短編になると、物語の構造が表面に突出して露出しはじめる。
中編になると、感得者そのものの技量が問われる。
短編は誰でも手をつけようとし、最後まで読ませる可能性がある、もっとも野心的な作品となり得る。
物語のエントロピーの重要性に気づいたとき、それの実現に最大限の努力をし、そこから解体をはじめて趣致ある作品に止揚することもできる。


テクストのあり方については、個々人の考え方があるし、文学理論を無視すれば、世の中の多くは面白い、面白くないで展開されている。
それは結構である。
読者を啓蒙したり教育したりするのは、ゲームのようなエンターテイメントの分野ではない。むしろ、面白い面白くないで語られる価値観念がゲームの現在位置である。
それに何度も言うようだけれど、そういった観点で評価できることは、肯定的な意味で気楽である。

美少女ゲームの臨界点で述べられた通り、ゲーム内容を超えた上位階層での脱構築の仕掛かりはすでに開始されている。そこで明瞭に行われた企図は、明瞭な結果を残している。
ある作戦が立案され、実行され、結果を得るばかり。
そういうことは、わたし(たち)のようなセンシティブな開発者にとっては、納得し感心はするのだけど、実感には結びつかない。そこにある、論理について思考がつなげられないのだ。割り込みが発生し論理結合を寸断する。テクストについてのパフォーム的なところとコンスタントなところの切り替えがわからず、全体図を作り上げられないのだ。パフォームとコンスタンティブが共有存在するテクストの鳥瞰は、その図から見取り図とはなりえない。


多くの小説指南書に書いてあるように、感性によってのみ書かれることは戒めるべきだ。
では、それはなぜか?
これに対して説得力のある説明をするものは少ない。
小説は小論文の試験ではない。論理的に書かれるべきだ、という説明は弱い。小説というステージでは、論理的にかかないという、構造も大いに効果的である。倒時法もいいし、しりとり法も結構である。無機、有機とわない投射も結構である。だが、そういったテクストの技法は誰でもできるのではないだろうか。ある人がいうように、新人賞候補になるテクストは小説の書き方カルチャースクールでも習得できうる。

論理的にという姿勢でテクストに向かえば、本当の良作は血のにじむような構築(および解体)が必要になる。解体する力も大いに必要となる。評価されるテクストは外部への接点が必要なのだ。その接点が論理的に外部につながりえれば、物語内部はどのような形式であれまだ評価される余地が残っている。
分裂病患者にたいして、その接点を見出せない多くの我々は、そこで評価を中止してしまう。しかし医者たちは、接点を推測しそこから、内的世界への侵略を始める。
「そうしろと、命令されたんだ」
という分裂病患者に対して、わたしたちは多くの場合、思考を停止してしまう。
<あいつは、気がふれていたんだ>
分裂病の苦痛というのは、自身の意識がほとんど清明であることだし、にもかかわらず襲い掛かる不条理な世界である。そこには、わたしたちの「意識」に関する重要な接点が隠されている。
しかし、接点を導出できる者が限られているとしたら、資本主義的に言って、評価外となる。それはマニアどもの道楽ということになる。わたしたちは消費することにはなれているが、消費するための努力をし自らの糧とすることには無頓着なようなのだ。この点においては、消費者は胎児のようなものである。乳は何もせずとも与えられ、それによって満足する。赤ん坊にとって、乳房は世界の一部であり、母も世界の一部なのである。自分は世界そのものである。
これはすごく極端な話ではあるけど、どのような形態であれ、ゲーム中の真似をする、という行為は、幼児が母親の模倣をすることに似てはないだろうか。だがもちろんのことだが、生産者と消費者を幼児−母の関係でとらえるアナロジーは転倒する。
もちろん、ある程度まで、この過程は進行しうると思う。ゲーム中に、自己を投影し、それをさせることで自分の欲望を充足させえると思い込んでいるうちは。だが、自分が眠いときに、対象に布団をかぶせたところで自分はまだ眠る状態にはないことがわかると、作品の彩度は本来的な虚飾に落ち込む。次に現実と虚構を行き来する能力を手に入れる。

だが、テクストを意識できるぐらい人は自我を持っている。
母なんちゃらなんて話は、ずっとずっともっと真剣に考える人が探求すればよいのだ。