去人たち開発ブログ

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小市民の真理

研究者としてでなく、探求者としてでもなく、伝記の読者となって、精神分析を読もうとなると、おおかたフロイドから入ることになる。
フロイドを知らないのにラカンを読むなんてアクロバティックなことはなかなかできない。


フロイドの著作集は10万もあれば手にはいるので、考え方によっては安い。
まあ、そういった一読者となると、フロイド著作集を読んで、「主人公はフロイドだ!」という錯覚が刻まれたりする。


このあとに、アドラーユングを読むと、なんだとーこのー! という、フロイド信奉に立っている自分に気づいたりする。
フロイドが多くの同胞を得、そしてその多くが去り、対立することになった。
でも、おおくの研究者は臨床結果のもと、それぞれがそれぞれの理論を打ち立てている。
たまたま、フロイドの科学的な方法が受け入れられたのだろうか?
それとも、フロイドの文学的素養が、彼の理論を受け入れさせたのだろうか。


ユングが、フロイドに対してほとんどが挑戦的であったけれども、一読者として、冷静に見てみると、それぞれが主張していることが対立しているにせよ、どちらかが理解しがたいということはない。
主張は、一介の読者には気づかれないぐらいには論理は組み立てられている。一読者にとっては、それはどちらのスタイルをとるか、ぐらいにしか選択の余地はなさそうである。
フッサールを読んで納得し、デリダを読んだら、否定していた。デリダが現代哲学だからといって、理由も判然としないまま盲目的にデリダに従うよりは、一読者として、フッサールの主張に、デリダの批判を加えた複合観念として、とらえることが適切かと思う。
カストロプ君のように、論戦の中で翻弄されているか、流されているのが、社会に適応して生きる人間であると思う。それでも地球は丸い、というよりは、地球が丸くても丸くなくとも今日は終電に間に合うだろうか、というな具合に。