去人たち開発ブログ

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数学が出来ないプログラマの末路

さて、前述の続き。

わたしが数学ができないで四苦八苦した学業生活なんだが、これはもう本当に目も当てられない。
わたしが中学生で、ひどい数学的な危機的状況に陥ったときわかったのだけど、
わたしは言語化できないものを理解できないのだ!


わたしが、中学校のころ、「マイナス」の概念でもうだめになっていた。
1−(−1)=2
が理解できなかった。
1+1=2
1−(−1)=2
おかしい。どうしてだ。
今でも、ときどき脳みそがおかしくなりそうになる。
(1)−(1)=0
ここまでは理解できたのだ。
リンゴ一個在りました。一個食べてしまいました。
残りは0個です。
(この0個は、概念なのに、なんだか理解できているのよ)


(−1)
これをどう言語化(=視覚化)したら良いかをだれも教えてくれなかった。
わたしは数字に付帯する(−)の意味が<いまだに>理解できいる。
マイナス1個のリンゴある。
NOT?。
一個のリンゴがない。
一個のリンゴがありました。1個の<不足しているリンゴ>を食べました。
リンゴは2個です。


ち、ちがう。この言語化(=視覚化)は失敗だ...
1個のリンゴが不足しています。
リンゴが一個あります。そこへ一個の不足しているリンゴを取り除きました。残りは2個です。
ち、ちがう...
わたしは分数の計算はできるけど、ときどきなんかの記事で目にする分数計算できない大学生をとてもバカにする気にはなれない。分数は、わたしは言語化できるけど、それができてもわたしにはマイナスの計算ができない。


論理学で初歩的な引き合いとして、
借金かける借金の例がある。
これの間違いは演算子がナンセンスなことだ。
100円の借金と100円の借金をかけることに意味はない。
それが自分に一万円の価値をもたらすことはない。


複数の言語があるのは効率が悪い。世界を一つの言語で統一すれば、誰とでもコミュニケーションをとれ、有意義だ。
これにある言語学者がこいうことをいった。
「それによって、想像力が奪われる」
わたしたちが、小説を書こうと思うとき日本語を用いるわけだが、その中で日本語の用法を逸脱する記述に及ぶことがあるのだけど、そこには書き手の実存の回りをぐるぐるとまわる想像力が見え隠れする。
それを目をこらし、見ようとする力をその代償として、受け入れた。


自分という主観が存在しない、論理界ではリンゴもなにも関係ないし、そこの道理があるのだけれど、それが自分なしで存在することを拒否するのだろうか。