kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

京都議定書

楽しい京都会議だった。
基本的にわたし、午前中はゾンビのようにはいずり回るだけの存在なので、ぼーっとしていた。なんか、一人だけ場の雰囲気が読めないのが居たのだが、俄然午後になるとやる気が出てきて、今度はあることないことわめき散らしていたような気がする。
gonzouさんもにちのさんも、なんか、京都の午後の勢いで、トツゲキーな意気込みだった。


去人プロジェクトは管理者のわたしの精神内容を反映して、どんどんと壊れていく。
でも、不安になるぐらい楽しすぎる。


まあ、京都会議のことは、追々話すとして、同人について考えて、コミケがどうだこうだっていう話をすると、わたしはどうしても郵便的不安について考えてしまう。
一体、この作品は誰に届くのか?
という素朴な疑問に対して、誰かの言葉の中でしか考えられていない。それで満足している。その中で、どういう落とし穴が待っているかなんて思いもつかない。


わたしもよくよく、今の批評は比較の問題だ、と思っていた。あれはどうだったけど、これはこうだから〜、みたいな話ばっかりである。その作品だけによる批評は成り立たない。コンテクストがなければ、「面白い」とも「つまらない」とも言えない。
他参照の中で、作品が動的意味生成の場を作る。これはバルト風。
そういった意味生成の場で、受容者の数だけ作品が具象化されるという、もう人類総作家現象が起こる。それでなくても、今の芝居小屋乱立である。
この細片化されたコミュニティーの横断なんて、よほど慎重に行わなければ難しい。
わたしはどちらかというと、小林の批評をふむふむと読む方だから、やっぱり世の中を一覧するテクストというのがみたいと思っている。それが無理なら、自分が許容できる範囲だけでの世界を一覧するテクストでもいい。遠出はしなくていい。新しい太陽系の惑星や月のことをも一刀両断する視座はいらない。でも、今緊密に関わっている日本のをぶったぎるキーワードは熱望したりする。
岸田秀はよくぶったぎってくれるから、かなり大受けである。


まあ、そういうことだから横断を前提しないでばらまかれた種は、適切な場所で適切な栄養を得、吹けば飛ぶような弱々しい根を大地に張るっちゅうことなんだろう。