去人たち開発ブログ

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批評

雲のむこう、約束の場所」を見終わった。
さて、批評しようか、とはならない気分である。


わたしは批評できる知識水準まで達していない。
映像技術のテクニックとか、物語の構造、音声テクニック。


ユーザの批評として、開発者が仕方なく聞く印象批評。
わたしは、印象批評からまだ、脱出できない。
ゲームという分野にあった、印象批評の可能性はもう失われつつある。
ゲームという創成期と同時期の人間だからまだ、可能である夢の批評テクニックである。
それもポストモダンに阻まれ、結局は不可能になった。


Airの批評を断片にて終わらせた理由はそこだ。
わたしの考えは脱80年代だから。
80年代なんていう切り分けは一体、だれが用意した切り分けだろうか?
そういった、脱、とか、反、は慎重に行わないと空疎なものになってしまう。


「くたばれ脱構築!」


と叫んでいればそれで爽快だった頃とはいささか状況がことなる。
批評が批評によって批評され得、また批評が作品から批評されるというヒエラルキーの転倒が容易に起こるとき、わたしたちは、その関係性によってよりより批評を見いだすようになった。
わたしたちは物語に欠損があるとき、その欠損が占有できない、空虚について言及し、その空虚それ自体を「損失」とはみなせなくなった。真空エネルギーについて、よく理解できなのと同様、わたしたちは物語の空虚について無理解なところがある。
もう十何年も前に、その余白を十分にエンターテイメントしていた作品があるのに、わたしはそういう80年代の思考に固着したリビドーが問題の追求を妨げる。


わたしは、世俗的…というか卑俗的なほうだから、空転や後進によって批評をやり過ごす。そしてその傾向が過剰すぎる。
批評するときに、身を引き裂かれる思い、をする。
二項対立に直面したときに、わたしたちはそういった感じを受ける。
物語自体の二項対立は、受け手自身の二項対立をも誘起させる。
ここに2×2の「ヨツドモエ」となり、対立が牽制に変わる。
効果的演出の効用を認めながらも、その効用によってかき消された他の効用について、懐疑的なわたしたちは、その上位階層に遡ってその効用について考える。その上位階層において、効用の被覆にもまた効用があると認められても、その直面した対立自体がどこまでの階層において有効かはわからない。その超階層化によって、対立を包含しながら無化にまで向かう構造が実存的に理解しがたい。オブジェクトレベルの終着に辿りつくしかない対立にすらその問題をすりかえてしまう。


二項対立を象徴し、物語を釘付けにした塔の役割。
物語にするために必要だった塔。
本当に視聴者をうまくつなぎ止める。
リアリティを失っている話を、その臨界点で繋ぎとめた塔。
二項対立の境界線だった。