去人たち開発ブログ

同人サークルK2Ceeが去人たち開発についての記事を掲載してきます!

《形式》複数の,2人[2つ]以上の[からなる]

おひっこしで、あんまし作業できないと、なんだこのむきーというふうになる。
9月一杯こんな感じになるだろう。
そういったフラストレーションは、良質の変換装置でうまくやりくりしたいものだ。
だが、そういった装置自体は、それのみで存在し得るわけではないのだ。


複数の声。
テクストの魅力はそれだ。
複数の目、複数の耳。
映像の魅力である。


本を読むと複数の声に耳を傾けることはある程度できるようになる。
だが、複数の目、複数の耳とはなんだろうか?
目について考えよう。
見る、見られる、の関係によって、わたしたちは、自分を存在していると感じるところがある。
わたしたちは、作品を顕微鏡にかけ、あらゆる角度から精査することができるだろう。
これによって、作品はより精度の高い分析、評価、意味を見出すことが出来る。


さて、作品が静的であるというその視点の限界は、もうニュークリやフォルマリズムをみればお腹いっぱいである。
ここに作品としてのシュレディンガーの猫を導入する。
あるいは作品としては、こういうヒエラルキーの転倒も可能だ。
作品はシュレディンガーではなく、そのシュレディンガーの猫なんだ、と。
そういった作品が最近はよくあるし、わたし自身、屈託なく面白くみさせてもらっている。

これの視座を人間の思考にも応用可能だ。
心の社会である。


私たちは、ライフゲームフラクタルとかそういうつたないプログラミングが好きだった。完全に工学書というきりわけでなく、ある可能性としてのお話しとして、とても興味をそそられた。
認知科学の観点、物理精神学な観点から見ても、その手の世界を概観する(といってもほんとに小さいモノだとおもうけど)にはとっても興味深く読めた気がする。
わたしたちは、意志のあるコンピュータという途方もない夢をそのころもう諦めていた。だからこそ、それは面白い読み物であったとも思う。
意志のあるコンピュータ、人工知能

ある人はこういったりする。
人の意識は将来、マッキントッシュのインターフェースのようにスマートに操作できるようになるだろう。
精神分析をかじるって居ると、それには一つの問題があることに気づく。
まるで量子コンピュータとデコヒーレンスのように。
人が、いまそのように考えているときのあなたのような人であるためには、何が必要なのか、という問いに精神分析の見地からの回答は単純明快である。
もちろん、精神分析理論の自我の発生起源について、筋は通っている。だが、それだけとは限らない。そうでない可能性がある。だから、コンピュータがゴーストを宿すにいたる経路は、まだある。


複数の目の話だった。
複数の目が単一の物質的作品から見返されるとき、そこに関係が生じる。
無限の入射角をもつ光は、無限の反射光で応答する。
それが困難かどうか、作品として成り立つかどうかは別としてもそのようであることは特に野心的であると思う。
わたしたちは、良い作品に、良いのぞき窓を見出すことがある。
のぞき窓から見える作品は、その範囲内において良い反射光を返す。
作品は、その一穴ののぞき窓に対して精確にその盤面を向けている。
往々にして単一の目を要請する風潮はまだある。マルクスだってその流れの一つだ。
作品は、こうだ。
今、提供するのぞき窓はこれだけだ。
だが、将来、こちらのほうからののぞき窓も考えられる。だから、その方向に向けて盤面を向ける。
のぞき窓と反対の方向を向いた作品は、そのブラックボックス内で虚無と等価だ。つまり、暗黒物質的なそれは、常にのぞき窓から目に何も応えず沈黙する。そこに、関係は生じない。暗黒物質が、なぜ発見されたか? 宇宙科学的な経路とこの経路は緊密に関連しあうところもあると思う。だけど、今はさほど興味がない。
その虚無ついて追求すると落とし穴がまつ。
なんとか、その作品の反射面を見つけるために、のぞき窓を必死に構築する。だが、その虚無はいまだ顕在。
最後にのぞき窓、その箱を取り去り(これは事実上不可能なことで仮定としも実質的ではないのだけど)、全てを光にさらす。そこには何もない。
すべての目が注目していたのは、その箱、のぞき窓であった。その中身はなかった。


わたしたちがのぞこうとしていたものは、そもそもなかった。


本を手に取り、それを読む。
何が書いてあるのか。
でもそんな本はなかった。
<それは話が前後している>


その本は実在しなかった…これは、風船の話の続きになると思う。
ある空間をいくつもの風船が占める、一つが破裂する、他の風船が圧力均衡になるまで膨張する、その間までの空虚に構築しうる虚ろなお話。
わたしたちは、他の風船がその理によって今、一つの風船が破裂したことで出来た空虚を占拠していこうとするのを回避することはできない。
そこにある問題。
そこには、超越的な視点で、「欠落」があった。
だが、だれも「欠落」なんてわからなかった。そこには「あった」のだ。
その作品と思っていた実体はどこにあるのか。


わたしたちは、その虚無を媒介として、ちょうど向かいの目と対向していた。わたしたちは向こうの目と向き合っていた(そして、自分が見てない無数の目を漠然と感じていた)。箱が奪われ、むき出しになった作品と向かい合ったつもりで複数の目のある一つと対向している。むき出しの作品は、劇場のように同じ方向の座席で同じ舞台を見るとは限らない。劇場という舞台装置は、観客をも舞台の一部にする。


これを消極的作品ではないと思っている。
芝居小屋の横断を主体によって行わない。作者が置くのは、興味をそそる箱だけだけである(じゃあ、箱が主体なだろ? ってな追求は当然でてこなくてはならない)。その中にシュレディンガーの猫がいると思っているかもしれないが、そもそもそんなものはなかったのだ。シュレディンガーの猫メタフィクションな役割である。

続きは書きたいけど、何を書くつもりだったか覚えていればということで、今日はここでおしまいと....