去人たち開発ブログ

同人サークルK2Ceeが去人たち開発についての記事を掲載してきます!

「何も意味したくないということを意味しまうこと」から

こうしてありふれたノベル創作を行うとき、他の創作者はどのような構想を描いているか? 作品の射程をどのへんに定めているだろうか? などと、深く考え込むことがある。


わたしたちも深く反省するところで、精神分析、文学理論の射程が狭いことをよくよく考えておくべきだと思う。
内容の問題だけでもない。
今では百科事典の射程もごくごく短い。
形式をよくよく考えなくてはならない。


よくよく考える、というのはいいことだけれども、今、ここではよくよく考えない、という選択肢すらある。
よくよく考えて何も言えなくなった作品が多い。
猫伝が写実小説の形態として成功したところの成果はなんとか受け止めてはいるけれど、形式というレベルでの創作には無頓着だ。


どこかで見たことのあるような宣伝文句、決められたサイズの広告バナー。
吐き気を感じたりする。


もう本当に、自分でも言うのは恥ずかしいぐらい極端な話であるけれど、表現において、準拠枠などないのが一番いいのである。
画面の大きさはこれ以上は無理、容量はこれ以上むり、入力装置はこれ以上むり…
無理ばっかりである。
そうではあるけどわたしたいは、イデア界においてなんら創造できないのも事実ではある。すべてをこなす「仮想機械」はそれゆえに何もできない、という逆接的機械となる。(これ以上推し進めて脱構築したってこんなものはつまらないぐらいの題材だ)


すべてが胡散臭くなる表現で、その胡散臭さを消化する方法はあるけれど、その方法もいずれ胡散臭さが増してくるに決まっている。わたしたちがフィクションから受ける胡散臭さは、経験がフィクションであるという認識が希薄であるかもしれない。
「現」「Da」がノンフィクションであればいいとは思う。
でもたとえそうだとしても、フィクションと共存するノンフィクションはその関係性の中において、虚実混交というもっと複雑な領域に配置されてしまう。
「我思う故に我あり」は反証されるべきものだし、それが名言事典に「文脈もなしに」掲載されているのは大いに誤解を招く。「精神と肉体」は独立して存在しうる、あるいは心身二元論のようなものがどのような経路を辿って、否定されたか云々…というとき、その言葉の周縁が重層化される。
だが、これは名言事典のあり方が当初から失敗だったのではない。引用されたテクストがこうなる、というのは分かっていた。分かりやすい譬えでいうと、名言事典がX軸、Y軸の交点、原点を明らかにしても、私たちにはすでに座標がないのだ。テクスト=織物=(縦糸・横糸)=座標。


胡散臭い表現たちが、どんな重奏を奏でて、不愉快な位相を上手く打ち消しても、演奏という行為からは逃れられない。