kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

どれだけ嬉しい過ちを犯せるか

過ちは過ちとしてそれは今後改めていかなければならない。
その中で嬉しい過ちとは、「笑い」に似ている。

わたしは、きっとわたしの「実体験」を元に話すべきではないと思っている。
わたしはデリダが死んだ夜に、一人粛々と夜酒を飲んでいたことを思い出した。

私が生きていようといまいと、私はあるは、「意味する」。


このときに、わたしは論理的に考えること中断してしまっている。
論理的に理解しようとしていた―わたしにデリダのテクストが理解できようか―わたしは、デリダが生きていた時に読んでいたものと、その死んだ日時に立ち現れるテクストとは全く別ものだった。そして結局、笑うしかなみたいだったのだ。


一つのターニングポイントとなったそのデリダの死は、一度はテクストという考えすら放棄させた。まるで殉教者のように、何もしゃべるもんかと一日口を閉ざしていた。
もし、あなたがやってみたことがないならやってみてほしい。一言も発せず一日を過ごすということに。


結局、わたしは24時間という短い期間ですら沈黙し続けることはできなかったのだけれども、別にそれが頓に困難なことだとは思っているわけではない。
黙っている間に、自身が何を言おうとしたかが重くのしかかってきた。


今でもわたしはデリダを再読することはできる。その再読に嬉しい過ちとしての笑いはない。
デリダは二回死ぬことはないのだ。いわんや、二度生きることもない。