げーむをつくってみる。その後
ゲームを作りたくて8年たった。
もしかして、わたしはノベルゲームを最初に作ろうとしたのは間違いだったのかもしれない。
テキスト、音楽、絵を単純に見せることが出来る手法
だから、ノベルゲームを作ろうと思った。
また、わたしは多くのノベルゲームに感化されていた。
わたしは、このような素晴らしいノベルゲームを作れるのだろうか?
では、どのようにそのようなゲームを構成しようか。
テキストとはなんだ? 絵とはなんだ? 音楽とはなんだ?
と考えることになる。
少なくとも自分の感覚を頼ることはあまりにも無防備であることを分かっていたから、別のより所が必要であった。
ここにはプリミティブなまでに追究しきれない言及があった。
わたしは、生理学的部分をより所にしてきた。
このような色をみたときに、どのような生理学的現象がおこるか。このような色素の差異は生理学的にどうのような現象を起こすか。このような音はどのような生理学的現象を引き起こすか。
なんや、千と千尋は視覚の心理学を上手く扱っているとのことで、それはそれで重要なんやなと再認識したところはある。
認知心理学のようなけったいでつまらないところに行き着くと、正直、当初のゲームをつくりたいという動機とはかけはなれている気がしてきている。去人の開発の半分はシナリオと寄り添っていたということもあるのだろうけど、単なる「シニフィアン」には重みが足りない。
こんな話をしたことがあるのを思い出す。「鏡」が<あなた>の前にある。それは本当の手始めにすぎない。次にその鏡を歪ませる。「歪んだ鏡」の前で<あなた>は自由にならなければならない。「歪んだ鏡」の前で「超理性的な正常な像を結ぶ」能力を養わなければならない。その像の次に創作がある。
あっさりといってくれるな、とは思うけれど「歪んだ像」のシニフィアンから「夢」を見始めろという。そこにはどんな素晴らしいテキストも踏み込めない領域があるのかもしれない。テキストだから踏み込めない領域があるのかもしれない。真っ黒の鏡にわたしは何でも見られるようになってしまっていたところがある。歪んだ鏡の像を否認しないところに、わたしたちが「次の創作」と思っているものがあり、その先にこそ「次の次の創作」という超同時代ゲームがありそうな気がする。