語ることができること
語ることができることは明確に語ることが出来る。語ることができないことには触れずにおかねばならない。
あたしゃ、多くの人が積極的な創作ができるような黄金幻想を未だに捨て切れていない。
そしていつまでこの幻想をうち捨てずにいられるのだろうと思う。
それは明日にもあたしの内から消えてしまってもおかしくないのだ。
そして今のところわたしがそれを捨て切れていないのは、自身が矛盾している部分を持っているからだろう。
あたしであっただろう彼の個人的な体験について、四季折々の時制で振り返ってみよう。
彼は信者であることを望んでいたし、そのような作品を見出すことを望んでいただろう。
だけれど、それは当然のごとく挫折する運命にあったのもわたしはよく分かる。
そこにそのとき、その普遍性を直感的に感じた彼に、わたしは異論を挟まむことはよそう。
わたしは、「嘘」についてはきめ細やかなレパートリーを兼ね備えてる。その「嘘」というのは真実を「嘘」といえるようなものだ。
彼はその「嘘」の信者だった。
わたしは「信者」である。
誰も彼も信者でありたい。信者であることで.を打ちたいとこっそり思っている。
誰も彼も疑問符それ自体に終止符を打ちたいと思っている。
だから彼も信者として終止符を打つことを決める。
終止符を打つ。それを打つように嗾けられたものは本当に惨めだ。決断しようと欲するがためだけに.を打たざるを得ない。
覚悟した打った『.』が、さようならばらもう一度!と繰り返すハメになる。されば!
『...』
わたしは「嘘」の「信者」である。
その嘘は古代文字でその嘘の真相のカンペをちらつかせているのにも関わらず。
「嘘」で彼が捨てたことがある。
地獄の沙汰も金次第。嘘だ。日本銀行券は地獄では役に立たない。名声もまったく役に立たない。
彼はわたしのようなものが死んだ後に、役立つものを模索しようと嘘をつき続ける。
それは有史への挑戦だろう。
あたしは彼が「嘘を吐くこともできないまでに嘘を尽くす」ことを期待してる。
彼はそういう不誠実なやり方でしか...