Hello! And good-bye KYOJINTACHI (7)
■@lice以降以前の数秒の回顧
kow@suhitoが語らなくなってここで、「われわれ」や「わたしたち」という言葉が増えてきた。
ああ、なんと堪える言葉だろうか。
そして、このことを考えると「秋日狂想」を思い起こす。
おいおい
こんなこというと、そう思う方もいるだろうかな。
「秋日狂想」は偶然にすぎないとしても、安心して失敗できた。
<good-bye>が予期される中でこんなことをいうことは感傷的な上に下らないことなのだけど、『同人という範疇での可能性の一端』の尻尾を掴んだシナリオなのである。
ユーザが納得できない、面白いとおもわないノベルは当たり前だと考えていた。だが、それらは我々も納得できないものだった。
ユーザがどうあれ我々が納得できるノベルって…
ああ、わたしはいまここでまだ躊躇っているな。よくわかる。
よし、躊躇っているのなかでわたしができるギリギリの試みを行おう。
§「秋日狂想」
卑屈になった同人作家の作品。
そしてその<卑屈>とやらは、本当に生ぬるい。何か<余地>を残した<卑屈>。
意地汚さがよく見えるセクション。
<個人的な頽廃>を反映していながら<大文字>で××となぞる外堀を残そうとしている。
無数の層を重ねるべきそれをある一つの断面のみで記述する。その他の断面には、どこかそれとは違う次元で敬意を表しつつ、はすに見ている。だがその後ろめたさを自認しつつ、確信的に行なう確定された言い訳の連続。
なんでかな、わたしたちはそれが分かった。
これはまったく馬鹿げていることだと確信しているのに。こんな風に感じるのは感情移入と関係妄想の類でしかないのに。
@liceの妥協は逆に、妥協すべきでない部分を提示していた。
「秋日狂想」はわたしたちがそれぞれのセクションが「引用」の中にあったのを、いまここでの製作について投げやりではないという主張があったように思う。それは「引用」自体を肯定しつつ。
興味深いアプローチである。それは自暴自棄だろうか? わたしはそうは思わない。それは@lice自身の問題であったし、同時に@liceは何者かに自身を投影していた。自身をなじることに慣れすぎてしまっていた。だから、あえてなじることのやり方を見直す段階にだったのだろう。
@liceはわたしがこんな風にいうのを不快に思うだろう。結論としてもの別れとしてわったことを忘れずにいうのだけど、お互い与えられた状況の中で甘えきっていた。