個人的な趣向について
フリーゲームを有料の書籍で頒布するというのは、オープンソース的なビジネスモデルかもしれない。オープンソースというビジネスモデルはいつでもがっかりする。矛盾しているようだけれども、もっともらしい説明が付属して、なんとなく妥当なような気がしてくる。
《小説→サウンドノベル》
去人たちをわざわざ本にしなければならないのか。
これはあたし個人的な考えなのだけれど、コンピュータと小説は別々のものにしておきたいのだ。
前世紀末のサウンドノベルの登場は静かな衝撃だった。渇酒のようにサウンドノベルをやってきたが、結局そこにあるものは、あたしいが読んできた小説とは別のものであることに気づいた。
あたしはサウンドノベルは小説+αだと思っていた。だが実際はそうではなかったようだ。その点については去人たちの開発で少しではあるが確信できる片鱗にタッチできたような気がする。
《サウンドノベル→小説》
実験的であったのはシナリオでも技術でもなかった。表現しないことを表現してしまったときの喪失感をそれとわからないやり方でデジタル化することだ。これは完膚無きまでに失敗した。無計画だったことと、サウンドノベルと小説の権力争いに無頓着でいられなかったからである。
《サウンドノベル≠小説》
問題を抽象化し、それをルールとして置き換えゲームとして楽しむ。絶対に間に合わないスケジュールだけれども、そのまでに何某の成果物を完成させなければならない……こういった現実逃避というかすり替えというか問題の脱個人化をできる人は少ない。
個人は非連続的な存在としての個人を受け入れることを容認できない。それを投射しすぎると、サウンドノベルと小説の権力闘争に頓着することになる。頓着すべきではなかったのだろう。