去人たち開発ブログ

同人サークルK2Ceeが去人たち開発についての記事を掲載してきます!

ニコ生のあと

前回のニコ生が終わったあと、酩酊の勢いですぐ床にはいったのですが、その次の日が二日酔もあったのですがとにかくぐったりしておりました。

おもしろい内容とかにしたいけど、なかなかできないですし、頭もまわらないわけで、きっとそれが強烈な後悔になっているのでしょう。

しかしこう、身の丈以上の望んで何になるものかと思いますし、それを悔いたところでなんもならないのにと、わかっているのですが、やっぱり気にしちゃいますね。

無意味への抵抗心もあるのだとおもいますが、それは心を鎮め無意味は歓待しなきゃあなりません。

でもニコ生ではちょっと力場が違うのでその枠内で無意味は前述の無意味とはちょっと異なるのだとおもいます。しかし、その枠内であればニコ生内でも歓待しなきゃあなりません。

と、そこでいう無意味を思い描いてみますが、わたしにはとても到達できそうないパフォーマンスに思えます。

それぞれのトピックがわるいとか、そういうことではなくて、それぞれのトピックに関する洞察とか展開の仕方がものすごく適当だったのでゲストであるヤマシタさんからさらに話を引き出すことができなかったし、よりエキサイティングなやりとりにもっていけなかったのが本当に悲しい。次の日丸一日、床のうえでごろごろ転がりながらまるで黒歴史を思い出したときのように大声で奇声をあげてすべてを無しにしようとしていましたが、すこし消化して排泄する時期がやっと来たかんじです。

私の場合、30分ほど緊張関係にある人と話すと、もう、他には誰とも話したくなくなります。話さなくてもいいようなところに逃走するか、逃げられなければずっとむっつりしています。

この手の社会不適応を自己と向かい合わないまま社会的合理性や社会が求める理性によって克服しようとしたり、すると大概よりわるい方向にすすむものです。

だから、私は逃走や、消極的攻撃で自分の性能の範囲で感情パラメータを調整し、極端に他のキャラクターの好感度を下げないように、あるいは好感度を下げても問題ないキャラクターを選別しながらヒューマンゲームをしているわけです。

パラメータ化された他人とのやりとりは、基本的に自慰行為に近いところがあります。それは厳密な他人ではなく、自分の延長線上の人物としてみているので。

であればこそ、ニコ生をやろうかなあと思ったのは、その人と人とが生々しいまぐあいがあってこそ、生々しい他者によって緊張関係の中で生きたやりとりをしてみたい、と思ったからだったのですが、いやまあ、なかなか難しいこと。

言語化が難しいだけで、思いは沢山あるんだ! みたいな14歳の中二みたいなこともいえるのかとは思うのですが、それを表現できず、誰とも共感できず、精神的に死んでいった人を知っている気がします。