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去人たち開発ブログ

同人サークルK2Ceeが去人たち開発についての記事を掲載してきます!

本日も文章練習

少し文章を書くことになれてきたのと同時に、愉しくなってきた。
個人的なピークとしては何が書きたいわけでもなく、ただ漠然と筆を執りたくなることである。
そこにはほど遠いが外界にアウトプットしたいという気持ちが少しでもあることが、カギ括弧つきのkow@suhitoという個体の1つの性癖だと思います。

本日の勉強

  • 学習型ロボットの犯罪は誰が罰せられるか。開発者? 所有者? 

人間の子どもは親が責任があり、批難や褒められる
自動車と同じ考え方。免許制にして開発者に過度の責任がないようにしてロボット産業を保護する。

本日の日記

傷が治らない。12歳の時分、ずいぶんと治りが早かった気がする。
膝にできた床ずれのような傷がずっとじゅくじゅくしてはや5日である。
自転車をこいでいるので衣服とすれたりしてかさぶたになることを許されない厳しい状態である。表皮がはがれると激痛である。浴槽での洗浄はまさに戦場である。
よくある
「あばらを2本ほどもっていかれたか……」
というフィクション上のあれがあるけれど、
「表皮と真皮を2割もっていかれたか……」
などとかっこつけてる場合じゃないから!
ほんと痛いんだって。
そら、バラモスゾンビも2回攻撃するわな、という納得感である。

去人たちにかんするしょうもないこと(創作)

去人についてしょうもないことを書こうと思う。
ツツイストの二次創作というジャンルがいつまでたってもできていなかったゼロ年代初頭、狼煙をあげたのは K2Cee の前身であるご存じ K2C である。kow@suhito齢12の頃である。
@liceにそそのかされて、虚航船団を薦められたころである。小説など全く読まなかったが、どうしてか虚航船団を読んでからというもの興奮して筒井康隆の小説をかたっぱしから読み始めた。
虚航船団をはじめて読んだのは、テレビ版のエヴァブームも一服したころだったと思う。
エヴァがアニメという形式に批評を呼び込んだために、あたしの頭の中では良い混乱が起こっていた。ただ、同時に多くのメディアから解釈と題する多様な情報があふれ出してきた。日本でも95年から一般的になったインターネットがそれに拍車をかけたように思う。
個人的には認識と解釈はクローズドでよかった時代がそのときに終わった。コミュニティを選んでいる時間はない、無数の矢文に射かけられ逐一それと自分の解釈を検討しなければならなかった。考えてみれば、これが今日で一般的な情報リテラシーということだとおもう。
当時いくらか感想文的なことを書こうとしたし、いくつか書いた気がする。あたしの頭の中ではたかだか2年前のことなのにうまく思い出せないのはなぜだろう。これが原抑圧というものか……なるほど。自己催眠をかけて何とか思い出してみるか……


ぐぬう・・・
はっ


わかりました。解釈の問題についてあたしも何か意見を言わなければならないと思っていたので解釈しようとしていた。でも実際には違っていた。解釈しようとするために、あまりに多くの解釈を読み過ぎて混乱していた。膨大な解釈の意味的中央値を鋭敏に知覚してそれをまとめた文章を書いた、書かなかったか……
何かを表現する」という者にとってとてつもなく恥ずかしい行為であること恥じ入るばかりである。だから、あたしも恥じ入っていると思っている……だって!? 冗談じゃない、あたしはまでもその時分、正しいことをしたと思っている。空気を読んで角を立てないで、多様な意見の中心を自分の意見として採用する。それが意識的にせよ、無意識的にせよ、現在のあたしには大事なことだったと思う。
去人たちのしょうもない話がここに繋がる。


あらゆる主張にはその裏の部分がある。


あたしがなんぼ、しょうもない話といってもそれには裏がある。赤字覚悟の出血大サービスにも裏がある。ガンジーの非暴力にも裏がある。裏がなければ表もない。そこであたしはこう思ったわけです。


公平な主張とはメビウスの輪の構造をなしているんだ!


ってな感じに。その答えは国語の教科書にはなかった。
そして虚航船団の中にその答えを垣間見た、と思った。小学校のテストでは出ないような小説で、そして小学校のテストに採用されたときの設問を想定して読むことのできない初めての小説だったと思う。精神的な破瓜体験がそこにはあった。正常と異常は等価と見なす。1人の精神異常者と10人の健常者は、たちまち10人の健常者と1人の精神異常者になりえる。
ある閾値を超えたら異常となりそれ以下となれば健常と見なし、その境界の定義は健常者と言われるナニモノかが決めるというのだから後は重畳的にループを繰り返す。
虚航船団は濃密なキャラクター小説であり、かつそれらのキャラクターの登場する疑似歴史小説だった。

……これを深く考えてこじらせると哲学という分野に足を突っ込んでしまう。今になって思えばそれほど本筋ではなかった。
歴史というものは何か? 
アンチ・オイディプスを読んだときに、あたしは全くできなかったし、フーコーの知の考古学も理解できなかった。あたしは、ソクラテスまで遡る必要があるのだろうと思った。ゾフィーの世界でソクラテス先生に会うとそいつは偽物の気がするし、哲学の世界もなかなか難しい……
デカルト先生、後世でめっちゃ叩かれてるじゃないですか……


ライプニッツたん「我思う、ゆえに我あり、とかwww 大草原不可避www」


ってか笑いすぎやろっ! やめたれや!


フッサールライプニッツとかベーコンとかwww 我とか、思うとか、適当すぎwww 空中戦ワロタwww ワイは地に足つけて考えるで」


あ、はい。


ハイデガー「ハンマーやで!」


ってか、この文脈でのハイデガーひどすぎやろ。


メルロ=ポンティ「」


黙られた……

ニーチェ「ワイの生の哲学もはよ」


あたしの虚航船団に対するテンションの急上昇はそれらの哲学的問題を内包しつつ、それらのタームを使うことなく語り尽くした非インターネット時代の個人への驚きもある。あたし自信も知識の外部化がこれほどまでに進むともう何年もしないうちに、ネットから隔絶された「個人的な体験」がノーベル文学賞の候補になるのも近いだろうと想像する。


さて、しょうもない話をした。
夢の木坂がどこに何があって、そこにどのような分岐点がいくつかあるか、それが分かるのは、意味も無く振りかえり、引き返すこともできない地点でなのかなと思ったのです。