去人たち開発ブログ

同人サークルK2Ceeが去人たち開発についての記事を掲載してきます!

【考察】クリエイターのシナリオ評価方法

シナリオを査読するにあたり、いくつか思ったことをまとめておく。
面白い、面白くないという評価が文章技術や物語構成に先行することはあってはいけないはずだ、という基本的な認識が自分の中にある。
我々消費者にとっては直感に反するだろう。かくいうわたしも、実は小心者でまわりがおもろいと言っているものは面白いと思ってみるし、それが面白くなかったら、好みの問題かな、と割り切ってそれ以上の関わりを保留してしまっている。そして、わたしはいま消費者としてしか、我々の制作物に関われていない気がする。

消費者としてのわたし

面白い、面白くないで関わっている。
芸術なんていくのは悪徳商法の一環だと思っていて、難解でややこしい作品は甘えで、平易な言葉で表現できないのは、自己満足だと、少し僻みを込めて口の端を歪めて面白くないという。
誇張することなく、実際こんなものだ。
これを恥ずかしいと思うかといえば、恥ずかしいと思う。わたしにも虚栄心というものがあるし、背伸びしていたい年頃なのだと思う。

制作者としてのわたし

面白い、面白くないで関わって……いない。それよりもっとひどい関わり方だ。
面白い、面白くないという印象批評は個人的評価と言い換えれば、制作者としてのわたしはさらに「閉鎖的」という語を修飾して「閉鎖的個人評価」といえるだろう。
この言葉には才能の臭いしかないし、それがなけれはどうしようないということだろう。たとえると、「天然少女」が愛されるのも愛されないのもその個人の才覚だ、といって当人の努力や学習を評価から一切度外視する乱暴さである。これは当然ながら、「感じが悪い」とされる。努力や対価なしに良い評価を受けるのは不公平であるという暗黙のルールが存在しており、それをすると背中を刺される。

閉鎖的個人評価による制作

われわれのことをおいておもても、なにも問題ない。才能を頼りに何かを制作する、おおいに推進したい。
歯を食いしばって、力任せにフルスイングするやり方――いい、最高にいい。
それでホームランが打てるならそれでいい。通常、それがホームランになるのは何かの間違いといわれるが、これは才能がない輩の悪口だから気にせずともよい。
ホームランが打てないことに気付いたなら、このやり方に問題があることを認めコツを掴むために沈黙を破ってなにかしたらいい。それがいやなら、全力でフルスイングで空振りを続けるののも、また、潔い。

公平にシナリオを評価したい

批評、評価のために文学理論が必要だとは言われてきたが、アベレージヒッター、首位打者を目指すためにも、文学理論(あるいは、「商業文学理論」)は必要だろう。
我々の制作中のシナリオをそのときの気分で、よい、悪いなどとやっていたらどうなるだろう? 責任者が落ちこんでいるからといってその責任者の責任で、より暗い演出へと変更されたりしてよいのだろうか? それが本当に物語のなかで必要なへんこうだろうか?
そんなものは閉鎖的な個人評価による制作でしかない。これを「改善」という人もいるし、「改悪」という人も居る。彼らは「面白い・面白くない」といって、そのようにいう。
山で遭難した二人がいてそれぞれ自分の方向感覚を信じて、一人は右が北である、もう一人は左が北であるといったところで、なんの意味があるのだろうか。

14歳の打撃試論

文学理論は必要です。だけど、それは虚構でいい。中2的な。
ホームランを実際に打つことはない。ホームランは打てるはずであり、自分はホームランを打ったと信じているのだ。閉鎖的であればあるほどこのホームランはより強固となる。その何重にも重なった閉鎖性がなんでもない制作者にある種の「面白い」作品を作らせることもあるだろう。
もしそんな風に評価されても、にやにやしなら堂々とその評価に浴せばいい。