kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

本を読まずにいることができるのか~華氏451をみて思うこと

製本された本を読んでいない時期が長かった。
それでなんてことはなかったわけだが、「本を読んでいない」という罪悪感、焦燥感のために最近意識して本を読むようになった。

「本を読んでいない」という背徳感の謎

自堕落を戒めるというような考えを持っている人も多いだろう。「本を読まない」ような生活は自堕落である、という考え方もある。もちろん、本を読まないと自堕落はイコールではないから一般的な話ではないが、本を読むことが勤勉さの一つの表現であるとするなら、本を読んでいないことで勤勉さが欠けているという論理も一理あるかもしれない。わたしたち日本人は二宮金次郎の銅像をみて教育を受けているので、本と勤勉さについて論理をこえてすり込まれているともいえるだろう。
二宮金次郎徳育教育論でもてはやされたのはずいぶん前で今では細かなヒビがみえるが、銅像はいまだにきれいである。銅像の怖さはここにあるし、革命のときには真っ先に取り壊されるのも分かる話である。
少し話が横道にそれてしまった。

華氏451を映画で観ることの愉しさ

華氏451は本で読むから、構造のねじれが楽しいわけである。華氏451も焼かれている未来があるのか、それとも今読んでいる現在だけのフィクションなのか。
映画はそのフレームか一歩外にでるので本で読むとは違ってそのねじれに執着することなく本が絶滅した世界を楽しむことができる。とくに今、本を読んでいない自分からすると少し滑稽に見えるくらいだ。
読書習慣やら、朝の読書時間などと読書が良いことだと教えられ、読んでいることはいいことだという情報を詰め込まれたあたしたちは読書の圧力から解放されるべきである。ファイヤーマンに同一化して爽快さを味わうのもまさに華氏451の愉しさである。

焚書は人類最大の愚行?

焚書されてしまうなら、電子書籍化すればいいじゃないと、高貴な身分な方がいったとかいわなかったとか。
極端なはなし大学の教授が生徒に買わせるために書いた、数百部しか刷らない本なんかある程度焚書してもいいとおもう。既存の知識を言い方をかえて説明して、それにたいして洒落のきいた個人的な感想をつけているだけで、そんなのブログでやったらいいのだ。
今後も書籍は発行され続けるだろう。紙媒体がなくなっても、別の媒体で。あと1000年もすれば、学問は空中戦になっているに違いない。特定の専門分野だけでも歴史的に積み上げられてきた知識をすべて読書にって把握することはできなくなっているに違いない。自分が研究対象にしている分野の厳密なコンテクストを理解することはできずに、洗練された機械要約でもって最新の研究に取り組む。はたして洗練された機械要約をどれだけ信用していいのか、あるいはそれを学問的に取り扱っていいのか。
専門家なら、嫌ダメにきまっている、というだろう。
でも、大衆はちがう。血液型占いを信じることができて、60分でわかる現象学フッサールハイデガーを理解し、ものぐさ精神分析でフロイドを分かった気になる輩のことである。彼らは洗練された機械要約を信用し、それに対して重箱の隅をつつくかのような専門家の指摘を無視し、専門家自体を軽視することとなるだろう。
その結果、学問が衰退し、効率よく要約された知識が容易に検索でき、いつでも参照できる未来がやってくる。効率よく要約し、それによって大衆を操作する時代がやってくる。
あっ、また、コンピュータが人類を滅ぼす悪役になってる! 悲しいなあ。
焚書とは人類を情報統制しはじめたコンピュータがしかけたことだんたんです!

という具合に1つのショートSFが思いつくぐらいに華氏451は現在でも十分に楽しめる作品です。時代を超えられるのが名作の条件の一つ、というのもなるほどな、とおもうわけです。

華氏451 [DVD]

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