去人たち開発ブログ

同人サークルK2Ceeが去人たち開発についての記事を掲載してきます!

スキャナー・ダークリーが面白かった

最近とみに寒くなってきたでしょう。
だからさあ、やっぱりね、あれですね、冬季鬱病状態になるのはある程度しようのないことだとおもうんですよ。
日照時間がね、少ないわけですよ。そりゃあね、ホルモンバランスも崩れるわけ、だからね、気分がめいってもそれを受け入れるしかないの。ね、だから、気分がめいっても無理して死んだりすることないわけ。ゆっくり、憂鬱が過ぎ去るのをまつだけ。そうそうそ。死ぬまで憂鬱が過ぎ去るのを待つだけ。

スキャナー・ダークリー

まあ、知り合いのディックが原作のやつね。え? だれが知り合いだって? ブレードランナーを千回はみたから、あたしは知り合いっていってもいいんだよ。
さて、楽しい戯れ言の時間は終わり。
ロトスコープの映画を初めてみたので、感想などを。
まず技法以前に話の展開がすごくよい。あるいはこういったほうがいいかもしれない、話の『非展開』がすごくよい。パルプフィクションが好きならもちろんこの『非展開』は最高にイカしている、と言っちゃう感じ。

ストーリー? 物語? 作り物? それっておいしいの?

というリアリズム指向はおいておいて、まあ、そういうやつはだいたい『括弧にくくられた』といわれる○△□がでてきて、物語の柱になったりするわけだが、ここで括弧にくくられたのは主人公だったというわけですね。

え? でも、それって括弧にくくりやすい典型的な○△□じゃね?

ああ、そのとおり。○△□については言及をやめ、いったん、現状認識の○△□を真理と仮定して話を進めましょう。話を進めたら、○△□の仮定は間違っていたとわかった、みたいな。
でも、いうほどちゃんとできてないし、そういう作品すくないじゃん。典型的であって欲しいけど、典型的じゃなくね? 「典型的な○△□」を逆に「容易に理解しちゃう」視聴者の「超誤読」が弊害になってるわけでしょ。むふふ、この意味が深く考えること恐いしね。

好きな作品をディスろう

アニメーターという職業のことを概念的にしか理解できないので、なんも言えないんだ、とかなんとかいっていると、ブログを書くことはできない。無知を自認して語ることについては、ここ何十年かでずいぶんと明らかになった気がする。ある偉い人は賞賛し、ある偉い人はこきおろす。それの繰り返しである。主観を主軸に、無知を知る、という本線しか残されてないとか窮屈な思想は一旦、保留しよう。

ロトスコープ - 「スキャナー・ダークリー悪の華

ふう、あたしは地球の大気組成を理解していないのに空気はこんなに汚くうまい。
ロトスコープという技法がどのように活かされるとあたしは楽しいのだろうかと考えさせられた。悪の華ロトスコープを観たときに、「あ、これかっ!?」という新鮮さがあった。
実際、悪の華のアニメはチラ見にとどまっっているわけで、バカみたいに千回もみていない。だいたい、同じ作品を千回もみるようならそんな人間はどうかしている。もっと他にすることがあるだろう。
だから、スキャナー・ダークリー悪の華なんていう対立構造はばかげているんだと誰でも思うのだ。
ざんねん、それでもあたしは悪の華を推すのだ。
何故だろう? Kowa@suhitoの気が狂っているから? いや、違う。あたしの気が触れていることと、この話は別の話である。メタフィクションがやっと追いついた今、メタフィクションの文脈が正しく理解されていないということが現在の状況を招いている。
メタフィクション形而上学アプローチだと思っているわけでしょ? 純粋創作がその先にあるとおもったりするわけ。形而上学なんて言葉をだしたらあとは何をいってもいい気がするけど、純粋創作なんてものはそれが存在するのも「ある意味」において、「ある指向」においてだとしかいえない。
あたしなんか、雪玉の真ん中に石塊があるのは、良く納得できるわけで、自分以外の誰かが被弾した雪玉をみて必要以上な痛みを感じるわけ。自分に向けられた雪玉だけ石塊が入っている、なんて思わないしね。
雪玉の核に石塊がないはずがない――そうあって欲しいという現実とそのようである現実をどのように描くのか。この観点でロトスコープ技法をみるとスキャナー・ダークリー悪の華は良い比較になるのではないだろうか。

スキャナー・ダークリー [DVD]

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