kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

創作はオナニーの延長でなければいけないのか

それでもあたしは、「創作はオナニーの延長でなければいけない」と思っている。

あたしが、「創作はオナニーであってはいけない」という偉い先生のなんかの記事を読んだときにある種の憤懣があたしの中にはっきりとあらわれた。いつだろうか。虚航船団を読んだ後、敵を読むより前のことだとだと思う。


あらゆる年齢規制のある美少女ゲームは制作者のオナニーを極めなければならない。さらに特定の美少女ゲームシナリオライターは想像的な変質者である必要がある。


あらゆる年齢制限のない美少女ゲームの制作者は不能者的にオナニーを極めなくてはならない。あらゆる快楽の裏を書くことを本線にオナニーと脱オナニーの間を行き来することで人間性とやらを担保しようとする。


あらゆる年齢や性別を超えるゲームは不能性を問題にしない。それは不能性ですら前提にならないために不能性=共感に訴えることが困難だ。去人たちをつくっているときにいっていたことだ。それは幼稚になってしまったと嗤えればいいのだけれど、そうならなかった。


メディアはお金を基準に必要な表現とそれ以外の表現を種別し、それ以外の表現ですら、「センセーショナル」という価値基準で言葉の単価を見いだした。それはたくみな座標変換のようなごまかしか多次元宇宙論のような未来への預託のようにおもう。あらゆる創作はその両者やそれ以外のすべての論理体系に取り込まれてしまうのだ。


文学的という言葉、哲学的という言葉……人間的とかいう……うんぬん……
それはもともとまった別の事だったのに、今ではかんたんに総括することができる。
反響し、かつ、遠方まで伝達されやすい言葉。


国語……文章創作作法……シナリオ作法……文学理論……


誰もが因果関係をしらずに結果だけは享受するといういびつな構造は一瞬にして崩壊することもあるだろう。いわゆるライトノベルを読み尽くしたあとの虚航船団がカウンターノベルセオリーとして存在しえたような発見を期待しちゃうっていうわけである。