kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

さあ、みんなで去人たちをつくろう!

lainのようにあたしたちが見たかったものは、今なお一定数創られ続けているのだと思う。
しかし、ニッチな作品以外が溢れかえり、そこへの到達が困難になったときに、あたしたちは能動的にそこに向かわなくてならないのだと気付く。
過去、コミュニケーションは不要だった、それが必要になったのは今なんだと、実感する。
孤独とか絶望という概念は単純だったし、それを共有するのにコミュニケーションは不要だった。
だから去人たちはあんなお終いを創れたし、それをある程度共有することが出来たのだと思う。


さて、今ここで何を思うか。
あたしは創作者ではない。創作物の消費者として、言いたい。
90年代のアニメ、ライトノベルは冒頭からセカイの成り立ちと期待されるストーリーをそのまま提示し、そしてそのままの結末にしかしようとしなかった。
つまり、ヒロインがピンチになれば主人公が助けに来た。
もし、それをしなければ、後味が悪い作品としてとりあえず表面上酷評された。
これは当時のあたしたちが感じていた批評空間に対する一つの回答ではないかと感じた。
作品をとおして直感的に感じてしまっている疑念を、文学理論やなんちゃら理論で補うことの矛盾を気付かせてくれる作品は『良作』だった。それを何度も見返すことで疑念はなくなってしまった。
そして気付くのは、『良作』を見続けていたら、作品をみる動機すら失われてしまうということだった。
あたしたちがその新しい批評空間にどっぷり浸かるころにlainがはじまる。
lainは受け手が共有したいと思っていることをおぼろげに提示しつつも、それを共有させるための確定的な表現をしない、というスタンスだった。



何度も迂回し、ただ知識だけをため込んだあと、lainはあらわれた。




以上より、いまここにおいてもオチが不要なのは明白になったと思う。
それでも今ここで無意味にやっているあたしたちを快く思う。
そしてゴッホカフカ、ダーガーみたいに当人たちとは無関係な成功事例を例外的なものと考えることだ。
あっ、それって不幸だよと思うでしょ? 
hahaha!
lain以前はもっと不幸だったんだ、個人的に。きっとあなたたちだって(?)。



そして今、あたしたちは『それ以後』というキーワードでやっと――