kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

最新レポート:去人たちの退去状況まとめ[NEW!!]

14歳には14歳なりの初期衝動があった。年を経てその動機が恥ずかしくなる、14歳の妄想は黒歴史と呼ばれることがあるのはそういうことなのだと思う。
14歳とは創作における不気味の谷だとおもう。
くさいセリフ、痛い名前、ステロタイプな設定……戦隊ヒーローがなぜ黒歴史にならず、14歳のつくるそれは黒歴史になるのだろうか。
……まあ、今回はその話ではないのでこれ以上の脱線はよそう。

14歳の去人たち

醜悪なものって好きな人がいて、私たちもその一人だったんだろうけど、そんなんだから去人たちなんて面白くてもつまんなくてもよかったし、評価されなくてもよかった。
興味を持った人が手にとって、面白かったら喜べばいいし、つまらなかったら無視すれば良いし、それでも腹の虫が治まらないなら批判すればいい。
14歳の動機としては十分すぎるとおもう。

でも、いま、その動機を解釈するという虚構をやってみたらどうだろう。
この試みはきっと楽しい創作じゃないだろうか。

ここに於ける去人たち


文学の役目とはなにか? テクストには力がある?
あのときはテクストには力あると思っていたし、そうあって欲しいと思っていた。でもテクストとは何かなんて本当のところわかっていなかった。
ただ、テクストというキーワードが去人たちという創作の入口になっただけだろう。言ってしまえば、知ったかぶりの領域をでていなかった、その程度の代物だ。そして知ったかぶりしながら、そこをとても、しんそこ楽しんでいた。その入口をくぐればそこには上も下もない眩暈を覚えるような広大な非重力空間のように思えていた。
とすれば本当に去人たちに込められていた意図とは、その入口の前に出来るだけ派手に道化師を配置し、出来るだけ多くの人を誘惑しその入口をくぐらせ、そしてその中から誰も脱出できないようにさせることだったんじゃないかと思う。そしてその道化師とは去人たちのことだ。
この入口の先にある闇に入り込む人が多くなればなるほど、去人たちという不確かなものは問題視されるようになり、その結果きちんと複雑に整備された通路によって構築された他の作品に置き換えが進み、最終的には完全に排除されることを望んでいたということはないだろうか。
とはいえ、その闇の深い入口の前で、痛々しく全く笑えないような鬼気迫る様子のテンションで踊る道化は逆効果だったのかもしれない。人々は前世の宿業かなんかで、気が触れたかように踊り狂うはめになった道化師を遠巻きにちらっとみるだけ。もちろん母親は子どもに「みちゃいけません!」と厳しくしかりつける。
冒険者、ただ雨宿りのために、肝試しに、その入口をくぐったものもいるが、大半は慌ててそこから出てくる。もちろんこのときの形容詞は命からがらに限る。入口のこちら側でしか、このような形容詞は使えないのだから。
道化師の踊りの真の意味を理解する者もまた、その入口をくぐらない。その入口の先の惨状を見通し、そしてその先についても見限っている。彼らがその入口をどうみるか。例えるのは簡単だ。ツァラトゥストラが住まう洞穴にお楽しみ会用の飾り付けをし、とってつけたような民族感を醸し出すために据え付けられた「めんそーれ」という看板を苦々しく睨み付ける、こんなところだろう。

さて、今でも踊り続ける道化師は自分の役割の矛盾について苦しみ、そしてどうにかして踊り死ぬ方法はないものかと考えたりするかもしれない。
あ、道化師さん、そろそろ休憩ですよ。

あとがき

国語の時間以外なら、文章を書くのは本当に愉快なはず――起承転結もいらないし、テーマもなくていい。
でも、やっぱり、なんか違うのかな。