非/反ソーシャル――お話を書いて殴り合おう――
過去、何度か個人的にお話を書こうとしたことがある。
文学理論をかじったりしたのは筒井康隆の影響かもしれないが、それまでの読書経験によって近・現代小説という文化を空間的に仮定し、その中に自分の立ち位置をx,y,zで具体的に措定することで、そこから語ることができる言術をはじめようとしたわけだ。
上記の一文は、わたしが書いてわたしが読み、わたしが推敲する。
そこで率直に思う。
ひどい……本当に、ざんねんだ!!!
わたしは、ここで支離滅裂な文章を書き始め、それを訂正しようとしている。
まず、政治的、宗教的、文化的な毒をすべて取り除く。
その限られたフィールドの中で、本音と建前を慎重に分別して、本音を縦糸に、建前を横糸になんらかのテクストを編もうと腐心している。
ミクロな時系列を遡ろう。この技法は冬が長いロシアフォルマリズムが得意とするところだろう。(これは興ざめな言術の典型だ)
腐心する前に、わたしは何を考えていたのだろう? 『政治的』を意識するときに、左や右やコミュニストやポピュリズムが空白をくり抜く。
『宗教的』を意識するときに、世界宗教と新興宗教は宗教のほとんどの空間を埋め尽くしてしまう。
文化に至ってはもはや、地球上の殆どを覆い尽くしている。
わたしがいま、ここでこのように匿名で滔々と語ることは、本当にしあわせなことだと思う。
言術に権威は失われて、自由に語ることができるこの空間を本当に喜ばしく思う。皮肉ではない、本当に。
わたしたちはこのようにわたしを知る機会が失われたが、その代償としてわたしたちはわたし以外をより深く知る機会を得たとも思える。
オーケー。わたしはいまもここで自由だ。