kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

去人たちレビュー応答:最終回

まえがき

さて、我々が広大なインターネットを巡回してなんとか拾い集めてきた「去人たち」のレビュー応答もこれが最後です。
「去人たち」を公開して十余年、我々が到達可能だったレビューの数としては多いといえるのか、それとも少ないのか。
我々は、「99人が下らないと言っても1人が喜んでくれるなら、そんな作品で良いからつくりたい」などとロマンチックなことをいっていた。このロマンチックという言葉で表現したかったことはかなり周囲に叩かれた覚えがある。ロマンティシズムが活発だった18世紀末だったらポピュラーな作家というカテゴリに属する事も可能だったかもしれない。しかし今ではロマンチックと言わない、ただ敗北主義者たちと我々は呼ばれた。我々は、然り、といって甘んじてそれを受け入れた、受け入れたように見せかけた。我々は価値感をこえる必要があった。価値感をこえれば勝敗も一つ下層の意味に分解されてある一つの構成要素になるからだ。「敗北主義者たち」はある物語の中では妥当性があるが、別の物語ではクリエイターだっていいだろう。ロマン主義の代表作を例にとろう。若きウェルテルが能力者でサイコキネシスをつかったトリックで恋敵を殺害してもウェルテルは物語の中で死ぬべきなのだ。ロマン主義の構造においてはかくあるべきだ。
我々はそんな思い込みを信じ我々については未定のままに創作を続ければよかった。必要以上に卑屈になる必要も無く、我々は「何ものでも無いかも知れない」という仮定を常に念頭において創作を続ければ良かった。いま思えばそれこそが「去人たち」をつくるためにもっとも必要なことだったと感じる。

レビュー応答最終回

eroge-pc.hatenablog.jp



多くの感想を書き残している猫箱ただひとつ氏による去人たちのレビュー、考察記事。全力でレビューしていただいたので全力で応答しようとしたが挫折した。一度は全力で応答を試みたが、マニアックすぎ、偏執的であり、それはいってみれば日記であった。そこでいまより改めて書き直す。レビュー応答するときにここまで気を遣うのもおかしい気がするけど、これはkow@suhitoのレビュー応答である。あたしによるレビュー応答、などといちいち書いて応答しないといけないのは、少しだけ愉しい。


このレビューは記事冒頭にあるように「作品"内"のみで完結しようとする語り」ということだ。この但し書きをつけられたら、あたしはそれ以後の批評について語ることは殆どなくなってしまう。物語の解釈についてはあたしも改めて気付かされる部分も多く、納得できる部分が多かった。あたしが @lice と酒を呑んでいるときだったら、こんな風に突っ込んで聞きかったぐらいだ。それらの批評について、氏も覚悟の上かもしれないが「作品"内"」というこの前置きは「作品"外"」との関係性を断絶せざるを得ないという別の物語を想起させる。……ってここで爆笑できるかどうかが「去人たち」のポイントかなとあたしは思う。あたしも爆笑はしてないけどね、ちょっとニヒリスティックに苦笑しただけ。でも、それは愉しい体験。冒頭で「内」と輪郭を作ってしまったら「内でないもの」を期待してしまう。あたしも「内」を意識すると同時に「内でないもの」の残像がなんどもよぎりつつこのレビューを読み進めた。


去人たちは「作品内」というときにその内にある言葉を誰も説明しない。我々も、@lice もあたしも。でも、氏の感想は説明しその組み立てを明らかにしてくれている。正直、これは物語の中で暗黙的に組み込み説明すべきことであろう。それをしないのは意図してのことかそうではないのか。あたしはそう思う。よくあるシナリオ講座でも「説明台詞はNG」というのは基本であり、それはその語りが物語の中での合理性しか持たないことを読者は即座に見抜いて作り物なのだと強く意識して興ざめしてしまうからだ。それは読者は物語に対して一方的にロールプレイを求めているからだ、とも考えられないだろうか。そこでの読者と物語の間にあるコミュニケーションは不全ではないか。その関係は従属的であり単方向であり、それぞれ交叉しないディスコミュニケーションがその痕跡だけを残す。今の時点において「一般的な物語」との関係をいったん解体しようとするとき、「説明台詞を求められつつ一切答えない」というやり方が固定された虚構を打破する一つの手法であると思う。それはいかにも粗野で趣もなく直接的だと思う。粗野で趣もない現実を文学は受容しやすい形で提供してくれる。あるときは脚色をしても。あたしは読者を直視するのも読者を完全に無視するのも同様に「メタい」ように感じうる。だからあたしは去人たちをツンデレ似非純文学の類いだと思っている。第一にはただツンデレなだけで、それが純文学の形式を借りたまがいものとして似非純文学をやっている。デレの要素は、虚構の読者だろう。作者は読者のレビューを経て苦笑しながらもデレデレとしただらしない顔をして「べ、べつにそんなつもりでつくってないよ」までが一つの形式になっている。そしてその読者とやらはたぶん実在する必要がないんだと思っている。作者の実存や読者の実存や世界内存在としての「虚構的実存(矛盾)」を含めて、クチャクチャにしてそれが最終的なゴールだと思う。すべてをうっちゃった、ということはないとおもう。そのクチャクチャの中で愉しんでいるんだと思う。想像だが、読者と作者は対等である、というところを越えて、可換ですらあるのだと、そこまで言っている気がする。


さて、あたしの前書きは終わりだ。ひどい前書きだと思う。あたしはふとすると露悪的になってしまうことがある。あえて去人たちの悪口を言うようなことはできるだけ避けていきたいと思っている。
――さて、
――冗談はさておき、
――それでは、
――閑話休題
――いやしかし、
――誤解があることを承知しつつ
――あたしの社交辞令能力を試すために
さっそく応答していこう。

『去人たち』はナニから去ろうとしているか?


個人的にいまでも考え続けている。去るということはどうことであろうか? まず、それを考察しておきたい。そもそもこの作品は「巨人たち」、「虚人たち」のパロディでなんだから、「去人たち」というタイトルもただの言葉遊びと考える事もできるだろう。いやいや、そうじゃない、そこには合理的な意味があると考えることが妥当なんだろうか。あたしは前者だと思っている。去人たちⅡは「巨人たち」と「虚航船団」を足して二で割っただけ。だから去人たちはSF同人作品なのだと思っている。監視者からの解放などどいう言葉も「巨人たち」のパロディだし、章立てと構成はまるっきり虚航船団のコピーである。あくまでも基本にあるのはただ「巨人たち」「虚航船団」あるいは「虚人たち」が好きというファンによる二次創作だ。その熱意は多少普通じゃないところがあるが、ただ、それだけ。尋常じゃない熱意が良い作品を生むことはあるかもしれないし、それが文芸として優れているとかエンターテイメントとして優れているのか評価されることもあるだろう。でも、ただそこにあるのは「キョジンたち」ファンによる二次創作だろう。あたしはいま、身勝手にしたり顔で自信満々に言う。「巨人たち」と「虚航船団」の二次創作とはそれらから派生した単に副次的な作品なのか、それとも @lice による独自の要素、創作物が盛り込まれているものなのか。


うむ、「去人たち」はそれらの焼き直しであり、二次創作といえる。既存の文学理論を援用しながら読者を少しずつ教化し、その結果得られる効果を超虚構的構図の中で「去る」というキーワードで象徴しているのだ。


なるほどなるほど。いやいや。でも……、でも……?
……あたしは結局わからなくなる。分からなくなって、いまも去人たちについて語ることは困難を極めている。つまりある共通的な価値感のもとで匿名で評価することは容易いことになっていると感じている。そして、去人たちはそれをそれといわず封殺したように思う。今日では、大概のことについて何も思わなくても語ることができる。でも何か強く思ったことは語るのが難しい。


つまりマニエラ患者はこの世界で粛々と生きるのではなく、よりよく去るため生きるための原則を変えてしまった存在ということだ。よりよく監視者から去るために生きようとしている生物である。


監視者は読者とか超自我の比喩とか言い出すとめんどくさいんだよ、文学ってやつは。よくあるギミック、外部構造と内部構造が入れ子になっているという、構造的なお遊びである。つまり、「巨人たち」における唖のボゴは……(うんぬんかんぬん) たぶん、超自我は世界によって監視されてるなっていう多重レイヤーにしたらSFっぽいし、重層的な物語はそれを説明しなくてもそれっぽい世界感を勝手に醸成してくれるよね。二次創作って原作のノリと勢いのままに、雰囲気のベクトルをほんの少し変えてよろしくやってくれる作品だと思う。たぶんノリと勢いの部分だけに K2C と小さく(c) しても良い記述が紛れ込んでいる気がする。

虚構世界を自覚するキャラクターというのはとても魅力的だと思う。当時も作中人物が視聴者や読者、プレイヤーに語りかけるシーンは行き過ぎない程度であった。それは人の生命を脅かす類いの禁忌ではないということと、作品と受容者の緊張を緩和するという点でも許容されていたと思う。ただし本編を逸脱しない範囲で許容されていた。そこにメタフィクションという用語でパターン化されるとその形式だけがコピーされはじめる。その形式にのっとっている作品を読んだら、自分を見失って頭のネジがガバガバになっている人間でさえあれば、ハイデガーを読んでいなくても実存を試してみたくて投企したくなっちゃうような作品が量産されるようになる。精神分析的アプローチや実存分析的なアプローチは90年代後半でホットな内容だった。だからこれも手法として単に使用されているだけだと本来の意味を失いはじめた。作品は細部に至るまでなんらかの形式で形作られていてそれによって解釈される、理性を越えた部分を含めて。では、歌穂の言述をどのように解釈するべきなのだろうか。去人たちⅡにおいて、歌穂と患者たち、そして男はなにか違う規範で動いているように見える。それらは独立して牽制し合っているようにも見えるし、階層構造を成しているように見えるときもあるし、部分的な相補関係に見えるときすらある。これは読者としてのあたしが作者が期待した混乱に巻き込まれ結果、そう感じたのだ、という評価が正しいと思っておけばいいんだろう。でも不思議なのは、何故歌穂が最終的に男とセックスしようと「発話」しなければならかったのかというところな気がする。歌穂は男とセックスしたいという欲望があったのか、それともセックスしなければならないという義務感があったのか、去人たちファンのみなさん、なぜ歌穂はそこでセックスを望んでいるんだと、声に出して男に伝える必要があったんでしょう? 精神分析アプローチをモチーフにした作品だから理由があるんだと思うし、ただリビドーという歯車を揶揄したいとか実はそんな理由かもしないし、もう考えるのやんなっちゃうよね。男の返答が関係性を少しだけ説明してくれているんだと思う。男にとって歌穂は死んでいて、歌穂にとって男は「対象」ってこと。その男の言い分においては、っていう但し書きはここでも必要だけど。


あたしがよりどころにできたのは「ブリスケット」だけだった。「ブリスケット」は形式の実装として使われたひとつの道具――それに反論したいけど説得できるような説明はできないし、うまい言葉も見つからない。


虚構世界を自覚するキャラクター達

生きるための原則を変えた結果が、「系統だった妄想を持ちながらもその妄想に価値を抱いていない精神病者」であり、その妄想によって自らの存在を異化させ、異様で未決なものにし、プレイヤーに判断不能な存在と知覚してもらうことを本意としているのである。さらに言えば、自身の極大にまで構築した妄想を遂行するため欲動エネルギーを使用し死んでしまう者なのだ。

あたしもこの点については読んでいて思った。設定や考証は「パプリカ」も影響しているんだろうなと理解していた。前述の通り90年代の作品ってゲームや小説において「メタ発言」は禁じ手という風潮はあったけれども、同時にそれを愉しむ読者がいた。当時はまだ「メタ発言」という言葉もない。メタフィクションという垂直方向の視点がうけいられてその後、「メタい」用語が一般に受け入れられていった。去人たちがここで虚構をあえて意識させるのは技術的な形式であり、そしてこれは二次創作として筒井康隆の引用程度だろう。「手法やら意味やら形式をころころ入れ替えて何を考えているんだ、この作者は」などと思ってもらえたら、それで良かったのかもしれない。っていうか、そもそも読者に何にも期待していなかった、なんていうと話が続かないのでなんとか想像を膨らませて続けていくよ。「系統だった妄想」って、合理的で説明可能な妄想ってことかなって思う。それって妄想っていわないんじゃない? なんか、マニエラ患者って殉教者っぽくみえるんだよね。なんとなく。その意味では歌穂は殉教者ではないんだよなあ。歌穂の説明の部分って他に比べて手抜き。SF小説ってこのへんもうちょい書き込むんじゃない? SFって専門家が読んだら噴飯ものっていうのが多いけど、もうちょっとほしかったなあってあたしは思う。設定や考証のほつれ、矛盾を読者に指摘されるのを怖れた? 誰が? 作者か? 歌穂か? 可能な限り合理的な世界であることが去人たちに必要なはずなのに、なぜここではそうしないのだろう? ここは必要な設定や、考証をつきつめて合理的な説明されるべきじゃないかな。あれ、なにか、去人たちの罠を感じてしまうな。こわいこわい。


『去人たち』は理解なんて求めていない


いやいや、去人たちⅡは意訳すれば『去人たち』は理解されうる、ことを見せていないかな? 直訳とか戸田奈津子版はたしかに読者拒否なんだろうけども。

しかし本作が唯一求めたのは、プレイヤーの「物語の見方」の変革だったのではないだろうか。

ショック療法的に物語の読み方というのを破壊して、物語とは何かを問わせるんだ!! 「去人たち」ってほんとうにそんなふうに見えるかな。否定的ってことじゃなくて、それはしたくてもできるのだろうかと、ずっと思っていたことだから。否定できないだけどももしそれがしたいんだとして、1つの仮説をたてて思考実験していこう。

「去人たちがやろうとしたことは、文学理論の講義をSFエンターテイメントのなかでやろうとした」

というまとめかたがあったときに簡単にはうなずけない。個人的とか、あたし的にとか、連呼しているせいでわたしたちの発言はどんどん希釈されてどこにも到達しない言葉になってきているようなきがするんだけれども、それはできるだけ無視して続ける。去人たちⅡは二次創作なんだ、そこに新しいもの、独自の解釈が追加されたりはしていないんだ。文学理論、精神分析の専門用語を多用し、異化し、消費者の判断力を喪失させることで一般的な価値感と比較して不相応な評価を集めたとして、公正取引委員会は去人たちの制作者と販売代理店を摘発しました、と夕方のニュースで流れるほうが釈然とする。どういうことかというと、去人たちⅡを語るときに、あたしはそのものについて語るのが難しいのだ。その理由は専門知識や読解力によるものかもしれないけれども、その一方であたしは架空のエピソードで去人たちⅡを理解することはそれほど難しくない。そこには良心だろうと、悪意だろうと、主体が見え隠れしている、それが大事なことなんだと思う。
幾重にも積み重なった平坦な地平は無限遠まで広がっている。そこに2つ以上の虚無的空洞があれば、去人たちは作ることができそうだ。新しい地平が積み重なればそこからまた去ろうとする何ものかが居ても不思議ではないと思う。

さいごに


以上より、去人たちというミステリーをささっと読み解くにあたって、どうすれば真実に辿り着くのか。それはミステリーの基本に立ち戻れば良いだろう。つまり去人たちを作ることで誰が得をしたのかを考えること。作者か? 読者か? あるいは両者とも? 主犯は作者で読者は共犯? あるいはその逆? 歌穂? 男? マニエラ患者?
個人的には確定的な言術はできないことを確信している。だから、こういう標語で締めておく。

去人たちは遍在する――――??


巨人たち (1976年)

巨人たち (1976年)

虚航船団 (新潮文庫)

虚航船団 (新潮文庫)

虚人たち (中公文庫)

虚人たち (中公文庫)

パプリカ (新潮文庫)

パプリカ (新潮文庫)