去人たちを作れなくなったうつ病プログラマーの地方生活日記

創作に絶望すると、世界が反転した日記

6月17日(水)

八時にスマホの目覚ましがなる。スヌーズを連打する。昨日の夜、飲んだ酒が少し残っている。ラジオを付けて世界の同期から始める方法もある。あえて同期をせずに自意識に閉じこもって創作脳に仕立てる方法もある。同期をすれば外に出かけられる身体に仕上げられるし、同期をしなければ創作脳あるいは陰々滅々とした日にしやすくすることもできる。オレは前者を選択する。NHKラジオを聞く。どうでもよいニュース。朝のルーチンワークといっしょにやるとちょうどいい。さいわい、あやは寝過ごしている。昨日の夜、徹底的に無視してやったのがよかったかもしれない。

ツナマヨをぬった厚切りトーストを食べる。今日は予定がない。珍しいことに生きるのが面倒くさくない。生きているメリットを考えている。躁と鬱の波を表す三角関数の周期は上振れにはいったようだ。いずれ下降し、そしてまた生きるのを諦め始めるだろう。だから今のうちに生きているメリットを享受しなくては。シュノーケリングの「練習」に出かける準備をする。フィンをつけたときの所作、水温が低いときの所作、離岸流にのったときの所作、シュノーケルの緊急排水、シュノーケリング時の潜水と排水の所作、オレは前回の失敗から自身に課題を見出していた。失敗しても死なない場所できちんと失敗しにいきたかった。自転車で三〇分ほどかけて伊花多ヶ浜にいく。砂浜。すくなくともいきなり深い場所はない。パドルスポーツをしている方が何人がいるかスイムスポーツはいない。シュノーケリングは浜辺でやっても透明度がなくてレジャーにならない。足がつく水位で立つ。フィンが邪魔して立ちにくい。何度か繰り返して立てるようにはなった。だが緊急時に立とうとすることがゲームオーバーだ。フィンの抵抗はかなりあるという学習をした。脚がつく水位で海底面をタッチの練習。潜水時の身体状態のチェックとシュノーケルの排水作業。シュノーケルはかんぜん水没することがわかる、だから潜るまえに肺に空気を吸い込み浮上後に一気に吐き出してシュノーケル内の海水を排出する必要がある。大きく息をすって……潜水……浮上、排水。肺を空気で満たすと潜水能力が低下する、慌てて水を搔いて潜る、予想以上に時間が経過する、あわてて浮上する、排水が浮上しきりまえにやる。不完全、吸気で海水を飲んでしまう、げほげほ。運動神経が良いとはいわないが、音痴でもないとおもっていたのでこの結果はがっかり。焦りが大きい。海水のせいか浅い水深でも耳が痛い、耳抜きしてみようと余計なことを考える、潜水速度が遅くて必要以上に大きな運動をして酸素を消費する。トラブルからの浮上の見切りの甘さ。でも一度失敗するとほっとする。失敗の原因も体験として理解できる。思ったより潜れないし浮上も遅い前提でマージンをもって吸気、排水を心がける。余裕が生まれると海中という状況の中でも冷静な判断ができる。わざわざ素数を数えなくても場を乗り越えられるようになる。次は足のつかない場所へ移動する。三メートルないかどうか。海水浴でいうほんのちょっと沖。何かあっても足はつけない、ただ緊迫感は急に上がる。潜って上がる、シュノーケルの排水。よし、問題ない。でもちょっと待てよ。浮上、排水後ちょうど波を被ってしまったらどうだろう? オレは一旦足のつく位置にもどってシミュレーションする。オレの排水は本気なので次の一手は吸う以外ない。排水後、シュノーケルに海水が満たされているシチュエーションでは死亡した。排水を完全にやろうとして肺の空気を全部使ってしまうことは御法度である。短く一気に吐き出して排水すること、そしてゆっくりすって海水が残っていればもう一度排水できる空気を持っておく必要がある。オレは潜って排水を失敗させて、再度排水するというシミュレーションを繰り返す。二度目は肺活量が足りない。吸うときにゆっくりとすることで海水を飲むことなく次回に完全排水するスキルを身につける。よし、オレはまずまずの生存率を身につけた。一時間でのオレの成長は楽しい。たぶん自己流で正しくはないけど自分なりに仮説検証を物理的な身体をつかって行うのはとても楽しい。人生のアジャイル化による一番のミクロな不確定要素は自身の身体データと感情データである。ふりかえりではそのデータともとに意見を出し次のアクション、タスクに落とし込んでいく必要がある。データの精度は次のタスクへ大きな影響を与える。ここで精度を高めようと頭に電極などを仕込む試みは大概失敗する。そこの精度を上げるのは困難だからだ。では身体データや感情データに誤差が大きく含まれているとしたときにどう対処するか、それはスプリント期間を短くするということに尽きる。効果が得られ亡ければすぐやめるということではない。学習曲線にはいつだって谷ができる。これを前提にして、「見込みがあるか」という問いを自分にする機会を短い頻度で与えるということであり、また別のタスク候補と比較して「諦めるか」という極めて相対的な議論の繰り返しを行うということ。今回の件は数十分を1スプリントとしてそれを繰り返すことでオレは成長できた。さらにふりかえりのなかで、ほんとうの緊急時に対応するためには別の対処方法を身につけておく必要があるのではないか、という仮説を提起できた。その仮説が提起するのは死なないという頻度はすくないが重大なリスクでそれは無視できないという判断のもと絶対に「避難訓練」しておくべきことだとと判断する。当たり前のことかもしれないが、これをその場で身をもって体感することが人生の楽しみだと思う。個物的なオレのリスク管理はオレにしかできない。特に今日のオレはオレはまだ死なないことを前提に考えることを推奨している。

家にかえると、猛烈に眠い。なぜ水に入ったあとは眠くなるのか。買い置きのおにぎりとカップラーメンをたべて仮眠をとる。十五時から人事部のマッキーさんと面談がある。寝過ごせない。タイマーをかけて寝る。

なにか機械音が鳴っている。はっ……枕のしたにスマホをしまい込んで隠蔽しようとしている。寝坊したか、ぞっとする。まさかの三分前。目覚ましが鳴る前に目が覚める症候群とにている。脳は休めていないのだろう。急いでパソコンをつける。今日のマッキーは影がない、元気とはおもわないが。やあやあお元気ですかなどという言葉を交わす、この時間がお互いの間合いを計る時間である。天気と湿度と梅雨の話をしたらさあ、次はどちらが主導権を握るか、という緊迫したアイスブレイク。オレは面倒くさいのでいつも主導権をとる。どのミーティングでもそうだが、誰かが何か話題を振ってくれるだろうと黙る。どのミーティングでもそうだから知っている。誰にも嫌われずに生きていくことはできない。もし相手が一秒以上黙ったら相手はオレのことに好感を持っていない。だから、オレが話題を振るようにしている。相手のことを好いているならまだしもお互い興味を持っていない同士、どうなってもいいではないか。これがオレが相手に興味をもっている場合には困る。去人たちに興味をもっている人だ。去人たちに興味を持っている人には失望して欲しくない。オレはおれを超えて相手の望むオレになりたいといつも思っている。作者論? そんなのどうだっていい。とりいることだ。相手の妄想としてのオレやオレたちを綺麗に華麗に演じるにこしたことはない。本性は、徐々に、失望にならないように、本当に少しずつ。陽キャ陰キャの違いをマッキーと笑いながら話す。会社のシステム開発をやっているVAR部でリモート飲み会が開催されるようですよ、という話を聞いて誘われる。オレはマッキーに「そんなのに出たらウツでしんじゃいますよ」という。マッキーとオレは笑う。「でも経費はでるみたいですよ。領収書でおいしいお酒かったらいいじゃないですか?」という。「でも死にたくないです」という。さすがは根はダークなマッキー笑ってくれた。この類いのブラックジョークは結構わらってもらうことが難しい。
アイスブレイクが済んだところで復職の話をする。笹野マネージャーからもせっつかれているのかもしれない。オレがこうやってマッキーと笹野マネージャーに二重人格で話をしていることに罪悪感を覚える。境界性人格障害者が相手に取り入ろうとする症状は社会的には凶悪であるからして申し訳ないとは思っている。オレにはオレが分からないというと責められる、だからオレはオレをあなた方ようにパーソナライズしてきた。これには精神科医も気づかない。あなた用のオレの違和感に気づくためにはオレのマニアになるしかない。統覚のもとに人がある、kow@suhito も制約を超えることはでなかった。おれがありのままに話せることがいいことかどうかは別だ。人格があってしかるべきだとももう。あるいはその両面の矛盾を許容できる鈍感さが必要かもしれない。@liceと話したときオレはオレたちだったし誰もオレを責めなかった。オレたちの無謀さを笑ってくれた。でもは@liceは気が狂っていた。最初にヤマシタさんと話したときにそうかなと思ったことがあるが、残念、彼は天才だった。天才は直感で正しい道を選ぶことができる。天才たちの名誉のためにいうがこれは決して楽なことじゃない。悩んで悩んで失敗も何度もしてそしてポイントとなる重要な分岐点で正しい選択肢を選択できる人々のことだ。努力はもちろんそこにあり最後に経験をもとに直感で最後の選択をできる人々のことだ。オレや@liceはそうではなかった。もしかしたらヤマシタさんもそうかもしれない。成功しようといいながら、それは失敗するため、理想と良いながらそれは絶対に達成できないもので、結局は破滅を望んでいた。理想は高くそれは自身が死んでも良いために、言葉にはしないけれども、死ぬために正義感や正しさを常に言葉にする最低の人間たちだった。若きウェルテルの悩みに共感するような精神薄弱な社会があったのだから、オレたちは深刻に考えなかった。ハイデガーを引き合いにだして企投しているほうが社会的に悪ではないかと議論を提起している場合でもない。一回性の、いまここにしかいないオレをどうするかについての判断をオレが正しくする方法について語りたいだけなのだ。
そんなことを考えているとミーティングの時間は終了した。復職するなら、来週か再来週からでしょうねという話。根拠ではなくプロセスの話として。死ぬまで生きろ、と命令されて生まれた人間は困るのではないですか? と考えたがこの会話の文脈ではかなり危ない。オレは黙る。いいね、と親指をたててマッキーに合図する。

ミーティングが終わったあと、オレはサイクリングに出かける。女縄市までゆっくりとサイクリング。クライムはのんびりのびのび、心拍が一六〇が上限になるようにゆるゆる登る。物理時間はゆっくりと進む。だけど心拍一八〇の時間と比べれば効率は良い。心拍数を倍にすれば倍の距離を進むといったシンプルな世界ではない。いまのオレがたどり着きたい場所と、オレたちと称するオレと同時代のたどり着きたい場所は全く違う。人は後者に賞状を進呈する。前者については評価を保留しがちである。本人たちがそうであるように、評価する人々も恐れている。ツール・ド・名破が開催されるなら、オレはスタート後数分後だけはトップを走りたい。名破を誰よりも走ってきたという強欲さのためだけに。ツール・ド・名破はもうちょっとまってほしい。まだ走り込んでいない。

家に帰って風呂に入る。風呂は気持ちいい。座禅を組む。世界はビッグバン当初のように圧縮する。一気に膨れ上がる。無限大の宇宙に対するオレの呼吸を意識する。それでも宇宙は物理法則とでもいうように膨張する。客観的宇宙と客観的宇宙が相克する。どちらも直近の地球的世界観には影響はない。哲学が探究するように、オレは無と有の堺目に注目する。オレが虚数空間にいてこのいまこのような混乱にこまれているとき、オレはこのように悩むと言うのだろうか? この問いは最高に良い。そこにおいてオレは肉体に頓着しないはずだらからだ。なにせよ、まだ、この宇宙はない。ある自我Aがうまれることが自明な宇宙がある。あなたは自我Aです。宇宙を作ってみますか? オレたちは回答に困窮する。なぜなら元が人間だから。自意識こそが判断を阻害する。何かを語るために生き残らなければならないのです。

語る? ほうほう、あなたは語り、聞かせるなにかなのですね? オレは苦笑いを浮かべる。

時間が経つ。オレは明日の予定を考える。てんこ盛りだ。酒盛りをしている場合ではない。薬を飲んで寝る。

6月16日(火)

今日はタンブルウィードに行く日。どうしてもキモサベに会いたくて予約していた。行くからには生活リズムを強制するために十時に予約する。平日に予約など必要なさげだけど、予約することによって強制力が発生する。タンブルウィードのご夫妻にとってはたぶんいくら遅れようがずれようが気にしていない。土日祝日ならいざしらず、自粛ムードの今、平日にダブルブッキングのような状況はあまりない。
七時に覚醒し、ねむみで目を閉じる。八時に覚醒し、起きようとする。朝の儀式やお風呂という贅沢も追加すればぎりぎりの時間。眠い。お風呂はキャンセルだと決め込み、自分が自分に課すルールとして起きなければと思い、目を閉じる。五分おきに目をあける。でも時計は十分進んでいる。オレは世界から取り残されている。八時五十分になりいよいよ限界だと思い身体を起こす。排尿し冷蔵庫から水を取り出し飲む。昨日も誰かがオレの身体に酒を流し込んだとみて胃が重い。酒量が制御できないのだから、一人で酒を飲むのは止めた方がいい。
歯を磨きひげをそり、買い置きの菓子パンをもふもふと食べる。着替えてでかければちょうどというところ。頭がまわらない。キモサベに会えるのはうれしいが、ご夫妻とのあいさつは苦手だ。頭の中で天気の話や時事ネタを作り込む。馬鹿らしい。ご夫妻も馬だったらこんなしたくもない話題を考えなくても良いのに。
途中、市場でにんじんを買っておく。キモサベのおやつにしてだいちゅきタイムを楽しむための必須アイテムである。タンブルウィードにつく。ご主人はタンブルウィードの馬場を均している。洗い場にはキモサベが待機している。草食獣らしくオレもよりも先にオレに気づいているだろうけども、懐深く構えている。コミュニケーション障害者としてはとても助かる。キモサベは胸を貸すからどんとこい、と男気ならぬ男の娘気をみせてくれる。キュンとしてしまう。キモサベにおはようとあいさつして愛撫する。キモサベは不満そう。人間基準で撫でられてもボクには……という空気。ボクは馬、お前は人間、一方的に取り入ろうとしてもダメにきまってる、まあまだ出会って短い、しかないかもしれない、でも、ボクは馬、お前は人間、その間を埋めるのがコミュニケーションじゃろ? キモサベの目をみてオレはどっきとする。ゴルゴ先生がいつの間にか来ていて、おはようございますと声をかけられる。人間でよかった。オレは頭をさげておはようございますと返す。
レッスンは常歩と軽速歩。軽速歩でキモサベと呼吸が合わない。キモサベはイヤイヤする。馬上での重心や立ち方でバランスがとれてない。
レッスンのあとキモサベは全身を洗ってもらっている。。オレはキモサベの顔を拭いてあげる。キモサベはイヤイヤする。そりゃ、そうだ。キモサベが気持ちよく走ろうとしているので馬上で逆の負荷をかけてくるヤツなのだ。むふぅ、たいへん不満ですよ、とキモサベがいう。オレは自覚があるから困る。頭をかいて誤魔化す。ゴルゴ先生が助け船をだしてくれる。本当に嫌だったら、人間ではどうしもようないぐらい暴れます、大人二人ぐらい簡単に跳ね飛ばされるから。オレは思い切って手綱を引いて顔を拭いてあげる。しょうがないなあ、という感じでキモサベが鼻面を下げる。胸がキュンとする。顔を拭いてあげたあとにおやつをあげる。小ぶりのにんじんを、まるのままあげる。おいしそう。厩舎の馬たちがワイもたべたいといななくけど、ゴルゴ先生が一喝。するとすごすごと首を引っ込める。ここではゴルゴ先生がリーダー。オレが誰かにおやつをあげるのはやっぱり不公平なのかなと気にもなる。

家に帰るとごっそり疲れている。少しだけ仮眠しようと布団に横になる。目覚めると十六時である。終わっている。ネットサーフィンで世界を同期する。ニュース、Twitter。みんな深刻な問題を抱えている。何とかしようとしているし、なんともならかなかったことも書いてある。事実だけの記事や意見だけの記事や、事実とも意見ともとれない記事が無限に並ぶ。いつも通り。オレには触感がない。

夕暮れになり風呂にはいる。座禅を組む。目を開けていると思考が止まらないので目をつむってみる。呼吸に意識を向けてみる。それでも思考がとびこんでくる。思考を止めるという思考は成功しているがオレの制御不能な思考が飛び込んでくる。キモサベやエクリプスのこと仕事のこと自分の生き方のことお金のこと好きな人のこと嫌いな人のこと政治のこと病気のこと。「何も考えないようにする」という思考は地獄の蓋をあけようなもの。より力の強い思いが先に先にわき上がって意識に登る。意識したくないものたちはどれもオレには不快。オレは風呂を上がる。オレは不快だと分かったことがよかったこととする。

風呂上がりに網戸から入り込んだ蛾と戦う。三センチ程度がバタバタと電灯にアタックしている。ホウキで一刀両断。光に向かって飛び込む虫をみるたびにつらくなる。それがなんなのかわからずともそこに飛び込むけど得るものは何もない。

6月15日(月)

男女がいる、グループでなにかレクリエーションをしている。リアル脱出ゲームのようなものかもしれないし、オリエンテーションのようなものかもしれない。オレはグループのなかでもなんとかうまくやっている。楽しいとすら思っている。だけどどんどん不安が募る。うまくいけばいくほどオレがこのグループの足を引っ張ることになるのではないかと不安は増す。何かの競技、アトラクションをオレがやることになる。オレは目を覚ます。

身体が心地よく拘束されている。自発的にその拘束を受け入れている。十一時すぎ。二十時間近く布団に寝転がっていた。脳が少ししびれている感覚、眠りすぎの時に感じる感覚。そして珍しく夢を見ていた感覚が脳の左奥にのこっている。空腹を感じる。全てを諦めさせる心地よい倦怠感。すっかり取り憑かれてしまった。オレはあやと心中できない。
起き上がるとパスタを茹でてがつがつ食べる。オレは生きる。身体は動かさなければ多幸感のある倦怠感に支配される。認識は偏向されている。この部屋は世界にまで拡大している。この部屋の外が怖くて怖くてしょうがない。まるで数年間寝ていたような恐怖で、そとは廃墟になっていてオレだけが取り残されているという妄想が笑い飛ばせない。昨日のオレと今日のオレが同一人物だという自信もない。そう思い込んでいることのほうが自然な気がする。しかしこの超感覚は経験したことがないわけではない。調子が悪いときに何度もここから泥沼にはまっている。都市部だと多く匿名の人がいて無差別に遭遇することになるので、この状態で外に出るのはとても恐ろしい。幸いここは田舎である。ほとんど人と遭遇することなく世界観察にでかけることだってできる。冒険のための防具装着儀式。サイクルジャージしマスクをしてヘルメットを被る。そして玄関の扉を開ける。
六月に入ってじめじめとした日が続いている。街は薄い薄い靄に包まれている。あと数日もすればサイレントヒル化しそう。オレが寝ている間に時間か空間か取り残されたのではないかと本当に思ってしまう。曇り空で風は強くひんやりと感じてちょうどいい。羊鳥ヶ岳の周回コースをゆっくりゆっくり走る。海岸に立ち寄り海を眺める。人はほとんどいない。出会う人には無理矢理に人を配置したような気すらする。靄は視界を数キロに狭めている。まるでハードウェア的な描画限界の様相すらある。トゥルーマン・ショーがはじまってしまったのかもしれない。周回コースと海岸を行ったり来たり、獲得標高がどんどんのびる。湿度が高くて汗が乾かない。今日は長く乗りたい。負荷を減らしてゆるゆるペダルを回す。
家に帰ったあとは風呂で汗を流す。結局、今日は現実なのだろうか、誰かの夢に出てきているだけなのだろうか。
腹が減って腹が減ってしょうがない。冷凍ご飯とレトルトカレーとゆで卵で早めの夕食を摂る。明治 銀座キーマカリー 150g×5箱 はうまい。
けだるさが消えて、離人感のみがほんのり残っている。正常ではないが創作には最高の精神触覚の状態。執筆作業をする。お酒を飲んで離人壁に少しだけ穴をあける。ここから見る景色はまだ鮮やか。
眠剤を飲んで寝る。

6月14日(日)

予定がない日の目覚めは身体が重い。そういう日は日記も書きたくなくなる。三日、日記を書くのを止めたらアウトだろうなとは感じている。オレの個人的な日記を何故かいているのだろう。日記を書いているときにオレはなぜDeleteキーを押すのだろうか? オレの書く日記は対象読者がオレなのだろうから、オレが読むのに苦労しない程度に意味が通っていればよい。そのためにもDeleteキーは必要なのでしょう。この日記を公の場に置いておく意味とはなんだろう? この日記はなんなんだ? 自明な世界をいったん横に置いておいて、狂った世界に適合させるための遅延言語処理装置で、その結果をもと表れる言語と体験の差異に治療可能性を見出す。よさそうな仮説。オレは過去の日記を読み返す。だけど、よくわからない記述が多い。初期の日記はお酒も飲んでいないはずだしちょっと想定と違う。じっと考えてみるがわからない。登場人物を起点に思考を巡らせる。あやは本当に必要なのだろうか。良くわからない。

十一時に遅めの朝食兼昼食を摂る。身体が重い。感情が動かない。刺激物を探して
死霊館 エンフィールド事件(吹替版) を見る。悪魔払いにおいて悪魔が自分の名前を言う言わないで激しい攻防があったりするのを思い出す。あれ殴り合いでもないしなぜ言いそうになっちゃうかも了解が難しいのでいつもぼんやりしてしまう。拷問と自白みたいな力関係をもっとわかりやすい構図を作って欲しい。悪魔も悪魔ですごい枕詞ついた幹部の悪魔なんだから一個体ぐらいであればパチンと花火ぐらいにはじけさせてもよいのではないあろうか。
オレは頭を抱える。あやが悪魔のように笑っている。オレは何にムキになっている。そんなのは作っている方も見ている方もわかっている。オレがあやに名前を与えたことの方だよっぽど理屈がわからない。この命名行為はむしろオレをあやとの共依存に追い込むのではないか。あやと同居したまま意識的にのりこえようという考えは現実的に思えない。物理的距離をとるという正攻法のほうがいいに決まっている。

日が傾き始めている。もう起きていることができない。布団に横になる。

6月13日(土)

夜中も強風がずっと吹いていて何度か目が覚めた。前日は休肝日としたので頭は石ころ程度の重さ。身体は付箋みたいに布団に張り付いていたが、少し気合いをいれれば引きはがせる。起きしな風呂に入る。ストレッチをするが身体がガチガチ。風呂上がりに朝の儀式をすませて菓子パンをもふもふと食べる。

午前は馬カフェタンブルウィードに行く。アイスコーヒーをいただく。馬図鑑をみているだけで楽しい。馬の種類がこんなにあるとはしらなかった。今日はマスターのゴルゴさんもいる。馬マイスターなので質問するととんでもない情報量の回答が返ってくる。ミンキーモモについてちょっとした質問をしたつもりが、いつの間にかDAICON FILMの話になっているオタク感、尊敬である。オレにはそういう深い話がない。話は面白く興味も湧いてくる。ただ目を見ないと失礼かなと思いがんばってゴルゴさんの目をみる。鋭い眼光と意思のこもった瞳、こちらの網膜が焼かれるようなつらさである。視点をぼかしたり周りをみわたしたり視線防御ばかりが気になって後半が頭に入ってこない。綺麗な目をした人は好きだけど、オレをみるのは止めて欲しい。帰りにキモサベに持参したにんじんのおやつをあげる。はじめて厩舎にお邪魔する。二十頭あたりの馬がいっせいにこちらを向く。なんだろう、この感じ。大勢の人にじっと見つめられるという悪夢を見ることがあるが、それとはちょっと違う。草食獣特有の警戒感と同時に、はやり馬カフェとして人と接し続けてきたことによる個人への興味。オレが見知らぬ馬に驚き、希望を感じているように馬たちも同様の気持ちでオレを見ている……という投射か。オレがにんじんをもっていることがばれると、くれろ、くれろとまだ名前もしらない馬が顔を押しつけてくる。かわいい。厩舎で最年長のリーダー馬さんにいったんあいさつしてにんじんをちょこっと上げる。がぶがぶ。リーダー馬さんは馬車馬として地域でも活躍しているらしく見た目も重量級である。首を愛撫してあげるけどにんじん食べたくて鼻面でにんじんをねだられる。すごいパワーである。かわいい。そしてキモサベにもあげる。今日は仕事もしてないのにおやつが食べられるとあって興奮気味である。話しかけたり撫でたりしてみるが、にんじんのことしか気にしていない。いやしんぼである。かわいい。そんなことをしていると、くれくれと別のうまが背中をどんと押してきたりする。ぐっと押されると馬のパワーがすごいと感じる。馬力というよりはトルクの太さ、そこにオレはキュンとしてしまう。この馬キャバ、散財する未来しかみえない。にんじんをあげられなかった他の馬に悪いことをしてまったような罪悪感。キモサベにあいさつをして厩舎をあとにする。

家に帰るとぐったり。ゾンビ・ホロコースト をのんびりみる。ホラー映画は作業がてらにみるぐらいがちょうどいいものが多い。これもまさにそういう映画としてちょうどいい。動画以外の時間の潰し方も見つけておかないとなあ。マンガでもよんでみよう。ペダルを回せていないしモチベーションのでるマンガなにかないかなあと検索する。ろんぐらいだぁすを読んでみようと思ったが最新刊まで追うのはちょっとボリュームが多い。マンガを読むという習慣はもう何年もやっていない。いま性に合うかどうかもわからないので、小さく始めたい。のんびりできそうな同人マンガの ぴよぴよ貧脚夫婦: 自転車マンガ を読む。のんびりしたいに合いそうな表紙絵にヒットした。ゆるい画がかわいいのとオレもおにぎりが好き。精神年齢7歳女児がうまそうに何か食べる自転車マンガ。グループライドの良さがシンプルに伝わってくる。相互作用のマンガ表現が心地よい。とりあえず2巻まで読み、続きは暇ができたら読む。そういえば、村上春樹の小説って僕の印象が強すぎてキャラクターの相互作用のイメージないなあ、などとぼんやり思う。

夜になりごはんを用意する。惣菜ものはなにもない。納豆があったのでごはんを炊き、ほかほかご飯で納豆たまごかけご飯をいただく。炊きたての納豆ご飯はうまい。

身体が重い。気力もない。胃も重い。前日に眠りすぎた影響もあるのだろうか。ただ、あやが一定の波にのって取り憑いてきているだけなのだろうか。普段はほとんど見ない Twitter をえんえんと更新しながらぼんやり眺める。いいねやリツイートの数が桁数もわからないぐらいについているツイートがばらばらに降り注ぐ。身が引き裂かれるような情報の重さとその量の少なさ。隻眼になったみたいに世界が平面に見える。距離感がない。この世界をどうやって歩けばいいのか。怖くてもう歩けない。恐怖を紛らわすために安いワインを飲む。

オレはもう十四歳になり古くなってしまった。オレが情報を処理する仕組みは一九八〇年代にIBMが売り出したメインフレームのサポート切れメンテナンス品だし、そのソフトウェアもCOBOLで書かれていて誰も保守できるようなものではない。処理速度やアウトプット量の問題はあるが、近代的かつ典型的な処理はできていると思っていた。入力情報さえ間違わなければそこそこアベレージな理解ができる。均等に垂直方向への理解は生きやすさを提供してくれていた。現代ではその処理はあまり生きやすさに関係しない。情報のインプット量の間口の広さこそが大事であり、そしてその情報の多数決的優先度とそれに対するレスポンス内容、レスポンス速度だけが重視される。泡沫のような情報を愚直にバブルソートできる装置を個人がもっていれば十分に生きやすい世の中にみえる。情報量、拡散速度の向上はすべてを幻想にしてしまった。どうでもいいものでも大きく見せられるし、本当に大事なモノを小さくみせられる。どんなことでもグローバルな問題にできる。これが良いことなのか悪いことなのか、それを判断するのは後のこと。ただ個人的に根拠もなく思うのは、これを良しとするのであれば物理世界とその中における身体性の限界が問題になるだろう。簡単に言えばマトリックス世界こそが理想郷。正直、妥協してしまえば今より悪くないとオレは思ってしまう。オレが一人で頑張って世界を置換しながら生きやすくしていることをみんなの総意でやってくれるのだから。書いていても思うが、どっかに嘘が紛れ込んでいるようだ。想像したら死にたくなった。

Twitter は見るものじゃないな。薬を飲んで寝る。