kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

6月27日(土)

スヌーズにしからの自力での起床。復職後の初の土曜日。寝て過ごすのはあまりよくないと思い予定をいれた。タンブルウィードで馬の手入れの勉強だ。乗馬は乗る前と乗ったあとでお手入れがある。これからも継続的に乗馬をするのであれば、そこを学びましょうという提案である。
皿洗いをしてひげを剃り、歯を磨く。ベッドを綺麗にする。足の裏に埃がついてきになる。掃除機がないので、限界になったら拭き掃除をしている。しかもオレは足の裏汚染恐怖症である。ロボット掃除機がほしいが高すぎる。目視で気になった部分をお掃除シートで拭う。
出かける準備をする。今日はお手入れだけなので乗馬の服装はしなくていい。半袖短パンのラフな格好。自転車でタンブルウィードにむかう。梅雨時の田舎の田んぼ道。湿気は草刈り機の音と草の匂い。土曜日だというのにオレは二日酔いではない。これは生き続けようとする人間の瞬間を切り取ったものだ。ならば、それでよし。

タンブルウィードにつくと馬たちが馬場に放牧されている。名前はなんにもわからない。キモサベがいるようないないような気がする。でもいるのかな。オレは人も覚えるのが苦手。全体としておおまかに理解することしかできない。記憶の中の映像はすべて強度のぼかしがはいっている。さらに色はほとんどない。なので雰囲気しかわからない。それであったときのコンテキストによって誰かを引き出している。何度も合っていればぼかしはへるが完全にぼかしはなくならない。思い出して似顔絵を描いてくださいといわれてもなにもかけない。髪の毛の色、長さ、目の形、色、パーツの配置、思い出せない。オレの記憶の中ではそのぼんやりとした像が分解不可能な記号になっている。あやの顔が思い出せないが、でもそれはいきいきとそこにある。
タンブルウィードでコーヒーをいただきながら放牧されている馬をみる。好奇心の強い馬が二頭やってきてオレに興味をしめす。鼻面を近づけてきたので触っていいのかなあとおもって手を伸ばすと、いやいやする。二頭には優劣が決まっていて青毛の馬の方が優位なよう。芦毛のもう一頭は様子をうかがっている。餌がもらえないんだとわかったのか二頭とも去って行く。馬同士はどうやってコミュニケーションとっているのか気になる。しばらくするとまたもどってくる。飲んでいるコーヒーが気になるのかも知れない。今度は触れるかなとおもってゆっくり首を撫でてやる。まあ、さわってもええよ、という程度の感じにみえる。接待されてるなあ。芦毛のほうも触らせてくれる。そんなことをしているといつの間にかゴルゴ先生がきていて声をかけられる。はぅっ、と我に返ってあいさつをする。
爪の掃除、全身のブラッシング、鞍のセッティング方法を学ぶ。全身のブラッシングも手早くやったほうがいいとのこと。えええええ。それが楽しみでやっているのに。でも馬にしたらこれから一発がんばりましょうか、というふうに思ってしまうし、それが長いとやるきなくなっちゃう、というところだろうか。明日から復職だとおもったら、じつは違った、そんな失望感を思い起こしキモサベと共有した。

タンブルウィードから戻るとお昼。冷やし中華をたべる。最近おろそかになっていたのでうまい。冷やし中華はチャーハンとならんで、個人的なお昼の定番料理。お昼を食べたあとは眠くなる。でもこのままではまた体内時計がおかしくなる。思い切って午後の予定を作る。女縄市までのサイクリングおよび冷凍食品の買いだめはどうか。冷凍庫をみるがまだストックが多い。はまっている肉団子の冷凍パック、冷凍牛肉、冷凍ブロッコリーが少し、餃子、チャーハン、アイスなど。もうちょっと減らしたい。女縄市まででかけて冷食を仕入れるということは片道一時間程度は考えないといけない。ある程度まとめて購入することで保冷時間をのばさないともどってくるまえに全解凍されてしまう。この案は却下、今後冷食の消費を心がける。では、シュノーケリングとか逆に山にいってハイキングとか。よさそう。どっちがいいだろうか。ビュリダンのロバを思い出す。あかん、死んでまう。きちんと考える。砂狐峠方面にいくことがないので是非、行きたい。激坂、深い森、非観光地。一人になるならいまだ。
ゴール直前では最寄りの自販機まで四キロ、今回はボトルを二本用意する。ハイキング用にスニーカー。ハイキングコースとしっかり紹介されているトレッキングシューズは不要だろう。ベースからの山頂までも獲得標高百メートルほどだし。出発、どんどん緑が深くなっていく。ワクワクしてくる。勾配がきつくなる。山に入る。勾配は一〇%オーバー。最近、負荷のかけ方も成長してきた。ゆっくり回す。ただし、同じ角速度で。必然、トルクが必要になる、引き足の使い方が肝になる。踏み込んだあと、休まずに引き足をつかってペダルの回転速度を一定に保つ。この作業の繰り返し。勾配によって自分が一番楽だと感じる速度で回す。区間の短い勾配一四%は気合いでクリアして次で足を休める。
ベースにつくとスニーカーに履き替えて山をのぼる。ベースには車もないのでここから登った人は誰もいなそう。ハイキングコースと侮っていたが、草が生い茂っている。新型コロナウイルスで誰ものぼっていないのだろう。蜘蛛の巣だらけの草むらをぬけていく感じ。先日の雨で足許はちょっとゆるいが、ちょっと気をつけていれば問題ない。湿度が半端ない。汗がとまらない。ジャングルかよ。二十分ほどで尾根に出る。景色が開ける。湿度で煙っているが、良い景色。この景色を独占できるのは贅沢だ。風も気持ちいい。ベンチですこし休憩し、尾根づたいのルートで伊灰山山頂を目指す。看板のコースタイムでは十分とかいてある。周りに木々があって山頂方面は見渡せない。しかも道の先は背の高い草で覆われている。本当に十分かなと思う。オレはザ・観光地登山しかしてないのでそのあたりの勘所はわからない。とりあえず進んでみる。尾根は谷筋にむかって下るそして分岐点。縦走ルートと伊灰山山頂ルート。伊灰山山頂ルートを選んだつもりだがGPSはあらぬ方向に進んでいる。いったん、戻る。縦走ルートを進むがそちらは正しい位置を示す。分岐点に戻る。YAMAP を開く。二叉になっているが、その中央にルートがある。オレの目の前にあるのは木々。人が通ったようなあとはあるがそこから先は木々に遮られているし道になっているとは思えない。しかも急斜面。周りを見渡すが誰もいない。むしろ、ここまで誰ともすれ違っていない。あやに相談する。楽しくなってきたね、と微笑む。オレは同感だという。地面は粘土質で滑りやすい。道はなくただの斜面をクライムする形。最初は道があるがすぐに消える。急勾配で直線で登るルートを目視で観察する。確かに十メールほどいけば上に道のようなものがありそう。朽ち木、低木、草が配置されている。オレはここで餓死しない。直線ルートを選ぶ。目に見える位置に道があること、不安に対してその道が見え続けることは安心材料だった。いま、こうして内省してもそれが正しいとは思わないが、不安というのは人の判断を鈍らせる。スニーカーを履いてきたことを後悔する。足場をかるく掘って進むがそれでも踏み外す。少しずつすすむ。十メートルがぜんぜんすすまない。低木を押し倒して進む。やっと道にでる。もとはどこに道があったのか。
伊灰山山頂に到着する。風が涼しい。碧海が見渡せる。海と山がみえてかっこいい景色。山頂のベンチにすわりオレはおやつにもってきたバナナを食べる。うほほ。うまし。コーヒーとクッキーでももってくればよかったなあ。もうちょっと涼しくなったらカップラもいいな。バーナーと水あれば、コーヒーもドリップできるしなあ。読書もできるしなあ。
バナナを食べ終わって下山する。途中に道なき道を通るがそこを抜ければ難所はない。ベースに戻って靴を履き替え、攻めのダウンヒル下山する。舗装路を下りながら意識が巻き戻る。後部座席のあやに聞く。オレが山の雑木林で朽ち果てていくのが何度か経験したことあるような気がするんだけど。あやは聞こえないのか、聞こえないふりをしたのか、何も答えない。

家に戻ると風呂にはいり汗を流す。ストレッチをして身体をほぐす。外気の湿度が高いから風呂はサウナ状態。とても長居できそうにない。出る前に冷水で身体を冷やして風呂をでる。
温まった身体をベランダでクールダウンしながら世界と同期する。土曜日は報道もすくないとみて世界は進んでいない。オレが山に行っている間にも世界は止まっていた。世界はオレを待ってくれている。あやは鼻をほじっている。おい、鼻ほじってる場合かよ。あやが今日はじめて言葉にする。今日、てっぺんから落ちたの覚えてる? あれと同じ。意味が分からないが急に夢の内容を思い出す。オレの通っている中学校は超高層ビルになっている。オレは部室のある最上階に向かうが、エレベーターは緊急停止する。階段でのぼる。その途中で地震がおこりビルが傾く。オレは屋上にでる。ビルの傾きは増す。倒壊を予兆している。オレは屋上の窓掃除ようのクレーンにぶらさがり、振り子のようにしてとなりのビルに飛び移ろうとする。ビルの傾きが増す、そこで夢は終わる、終わったはず。オレは落ちてない。あやは何も言わない。そっぽを向く。
オレは 岳 -ガク- のことをなんとなく思い出す。関係ない話なのに。パスタを茹でてミートスパゲッティを山盛り食べる。うまい。
一息ついて執筆作業をする。執筆はなんなのかと思い始めて数日、せっかくなので続けている。辞めて良い時期があるのかもしれない。今日、自己が一度でも起動したのか? ならば自己は正常にシャットダウンされたのか?

6月26日(金)

ずるをした次の日の朝は早い。罪悪感でちくちくするのがはっきりと分かる。あやはいない。スヌーズを一回だけで起きる。奇跡みたいだ。一日休む、金曜日なら今日も休んで、月曜日、六月は休んで、来月から、夏休みまでは休んでお盆明けに……一瞬考えてしまう。問題の先送りは自体をどんどん悪化させていく。
出社するために、人格を抜く。そのためには世界と同期する。radikoでニュースを聞く。ネットでもニューストレンドを追う。世界座標のオレの位置が補正され正しい座標に転送される。ジャイアントロボみたいなもので何者かに呼ばれれば参上する。たぶん操縦しているのはあやだ。いいか、ぶつけるなよ、ロボを絶対にぶつけるんじゃないぞ、ふりだからな。悪幼女あやは劇画タッチの表情でほくそ笑む。こんなときばっかり帰ってきてオレを不安にさせて喜んでいる。
出勤までにZwift用自転車のメンテナンス。ギアによってチェーンなりがひどくて要調整。ポジションが戦闘モードすぎて股間と腕、上半身がつらいので調整。まずはポジション調整。アップライドポジションをとる。外乗りのグラベルバイクと同等のポジション。最後の微妙な調整、サドルポジション、シートの高さ、これが一センチでもかわるとかなり印象がかわるから人間の感覚とは繊細だなとおもう。調整に一時間もかけてしまう。あとはロングライドしたときの部分的な疲労や全体的な走行感でしかない。調整がおわるともう勤務時間である。早い。

わあ、体調良くなりましたよ、てへぺろなどとわざとらしくポエムを投稿するとアイコン芸人たちが応答してくれる。考えてみると不思議だ。オレに誰も指示はなし。雑談しようともない。オレはチャンネルの未読を消化すると一人で宣言し誰が承認するわけでもなくやっている。オレは本当に出社しているのだろうか。この会社はオレが作り出したまぼろしじゃないか。とくにオレが自分がやりたいと思っていることを誰の承認もないのにやっていてそれを不安に思っていないのはちょっと異常である。周りの目や評価を気にしているオレがそんなに堂々とオレが正しいとおもったことやっているので、文句があればいってくれ、なんて昔のオレからしたらヤケクソみたいな働き方するわけがない。そんな不安からか、ほとんどのメッセージをいつもより多めに読み飛ばし、思ったことをポエムとして長文で投稿する。ポエムの投稿文の最後は、「異論は認める」「kow@suhito の感想です」「しらんけど」「とかなんとかいっちゃったり」「だってにんげんだもの」等々。ポエムは優しい。これに応答はない。個人の感想ですが、ポエムについての正しい所作は、期待のすりあわせだとおもっている。オレはこう思った、について共感するのか、違う意見なのかをしりたい、というのが書かれた文字の意図するところだ。それがないなら黙っときゃいいんだから。書くとそのチャットメッセージが「読まれた可能性」の世界で自己の世界を構築するのはいいけど現実世界の課題にとりくんでいる事業体のなかでそれをするのはやっぱりまずいでしょう? 個人の感想だけど。
休職前にオレが所属していたRMI チームはうまく機能しているようにみえた。すごくうれしい。RMI チームはユーザーが任意に提供するサードパーティーを含めた各種活動ログの収集をしアイソレーションタンクのパラメータ属性のもととなる分析サービスへ渡す。ユーザ自身がオプションとして入力する身体情報、趣味嗜好、病歴なども管理する。もともとオレをいれて4人のチームで瀧山、栞、浦野。オレと瀧山が男性、他が女性の男女比半々という業界では珍しい環境。瀧山、栞ともにベテラン勢、浦野はウチの会社では珍しい新卒からの五年目。オレが抜けたことで浦野がとれるタスクが増えて成長が加速していた。瀧山も栞もチームの健康状態を気にかけよりよい方法を模索している。チーム憲章、プロジェクト憲章が更新されているのに感銘をうける。オレは誰よりもはやく死にそうだから、オレが死んでもこまらない属人性の低いチームを作ろうとしたのは失敗ではなかった。なんかほっとする。あとはいつ飛び出してもいいだろう。
時短勤務でもまだ長く感じる。明日の予定を考える。RMI チームがうまく回っているしクリティカルなミッションをよいリズムでまわしている。オレの体力やブランクのことかんがえると、もうちょい自由にできる活動場所が助かる。オレはいまのところチームをはずれているとのことだし、今後の配属は笹野マネージャーあずかりである。とりあえずデバイスから要求・応答を担当しているデバイスロジックチームのスクラムに見学させてもらうことにする。仕様変更、機能のアップデートによって変更箇所が多くなりがちな箇所で通年人員不足の部署だ。個々の技術者は十分にスキルをもっているが、組織の体をなしていない。マネージメントへの興味関心がないので自分たちの問題に気づけていないし改善できていない。笹野マネージャーは気づいているけど、忙しすぎて黙っている。家庭があり共働きで子育てして、働いたからといって残業代がでない。オレは笹野マネージャーをまったく責める気はない。みんな知っているが見えてないので言わない。離職率や異動希望のデータが見えたときにはじめて議論になるだろう。データは大事だけど数字、こうしたいという数字のために動いて欲しい気もする。ベンチャーだし、反対があっても思いがあるプロダクトのほうがいい。
時短勤務定時退社。本当に何もしていないのに、頭のなかで一人議論しクタクタになってしまった。

ベランダで少しぼーっとする。ペダルをまわさないとなあ。夜ごはんどうしよう。お酒買いにいかないとなあ。最優先事項のお酒か。自己が部屋に固着してしまうまえに外にでかけたい。天符堂本舗にいって、お酒だけでも調達する。あえて徒歩でいく。テクテクテクテク。いつのまにか天符堂本舗についている。十五分たらず。紙パックの安白ワイン、紙パックの熱燗にしたらなんとなく飲めそうな日本酒。適当に生活雑貨など。家に帰る。
まだ六時すぎ。日が落ちてくる。あやが準備運動をはじめたようだ。うずうず。お酒が飲みたくなる。アル中いややなあ。いや、そうはさせない。まずは風呂だ。風呂で焦らしてやる。最近、風呂がとみに気持ちいい。お風呂で住民の方と会うのがいままで気が引けていたのだ。復職してからというもの、オレはきっちり働いて風呂に入っているのだ、と人の目が気にならなくなった。背中に「リモートワークで仕事してますがなにか?」というタトゥシールを張れればもっと堂々としていられるだろう。本当にオレは人にどう見られているかばっかと考えている自意識過剰なとんきち野郎である。あやもなにか言ったらいい。何もないのか。
風呂上がりのミルクバーうまし。ベランダでぼーっとたべる。
夜ご飯は熱燗に冷や奴と塩つくね団子。冷や奴好きは二ヶ月周期でやってくる。好きなものを毎日大量に食う、飽きる、しばらくするとまた食べたくなる。いまは朝食のシリアルがお休み期間です。朝はもっぱらヨーグルト。

時短勤務なのに時間がたりない。フルタイムになったら何を削るのか……決まっている。この日記を先に削らなければ。いったい、オレはこの日記に何時間かけているのだ。いいか、今日何があったか? クソみたいな仕事をして疲れたから酒飲んで一人で愚痴をいいました、ってこと。「ある種の空隙を深刻ぶった言葉で埋めておかなければ不安神経症」をどうにかしたほうがいい。がんの告知をされるのを予感したら、オレは医者のまえでずっと適当なことを言い続ける自身があるぞ。死生観については放送大学の講義がよかったとか、死の受け入れ段階とかホスピスの話とかずっとしてやるんだ。でも、それってタモリっぽい。タモリ寺山修司のモノマネが久しぶりにみたい。

薬を飲んで寝る。

6月25日(木)

目覚ましのアラームがなる二分前に目が覚める。アラームを止める。このまま二度寝すれば何もなかったようにできる。あやはいない。なにもやる気はしないが起き上がれる。
朝の儀式をすませるとベランダで椅子にすわってぼんやりする。何も考えない。でも余計に考える。仕事をしたくない。生活の糧の比重が一気にました仕事はチームや組織を突破してまで課題を解決しようと思えなくなっている。受動的になっている。口を開けて待っていればスキルアップや成果があげられるポジションをさがすことはするかもしれないが、能動的に動くのはいまではない。圧倒的な無力感はねばりがたりないだけなのかもしれないし、無限にまで広がった理想に現実の進みが矮小化されているかもしれない。認識の調整、問題や課題の分割統治、会社での目標設定、個人の目標……個別には正しいが、悟性、理性がない原生生物だ。

オレは slack を開くと今日は体調不良で午前休をもらうと連絡する。笹野マネージャーからは、「お大事に」とすぐに返信がくる。同僚からも気遣いのメッセージがとどく。オレはずる休みしているのだから気にしないでいいんだよと、書き込みたくなってしまう。ばれているような気がする。オレの思考は全員に読み取られているんじゃないかと思うときがある。昔は「嘘をついている」というのがばれ、蔑まれるのが怖かったが、「嘘で休んで堂々としている」と勝手に思考を読み取ってもらったほうが楽ですらある。

やましい休日。オレは代償として全力でやれることやる。タンブルウィードにいくとゴルゴ先生が玄関のポーチでタバコを吸いながらくつろいでいる。なんだろう、見た目とそのスタイルが完璧すぎて現実じゃない気がする。「あ、おはよう」という力がはいっていない無骨なあいさつも憧れる。良い感じに力が抜けている。こういうどっしりとしているところが馬たちにもわかるのかなと思う。オレがキモサベにへーこらへつらって取り入ろうとしているねずみこぞう作戦は好感度のステータスをあまりあげていないのかもしれない。もうちょっとしたら、キモサベにオラついていきたいけど、キモサベかわいいよ。
今日は軽速歩メインのレッスン、馬上で立ち上がるのがむずかしいことむずかしいこと。常歩ですら安定して立つのは難しい。常に振動と微妙な速度の変更による慣性力を微妙に調整しなければ前に崩れたり尻餅をついたりする。物理エンジン的なイメージは頭の中にできているけど、空間移動の視認情報と体幹で感じる慣性モーメントを処理して重心の位置をずらす、鐙への力の伝え方を変えるというのは非常に困難。頭で考えていてできる状態ではない。さらにはこれをしながら馬のお腹をぎゅっと抱えるという動作も本来必要だという。オレの乗馬スキルは二足歩行ができはじめたころのアシモ程度でしかない。キモサベもオレが慌てたり、リズムがずれると速歩をやめてしまう。楽しく走っているキモサベにとってはなんかばたばた馬の走る重心を崩して疲れさせるわけだから面倒でしょうがない。ゴルゴ先生は、止まったらどんどんお腹蹴ってという、ふえーん、キモサベかわいいよ、ごめんよ、ごめんよ。えいえい。ゴルゴ先生曰く、躊躇せずけること。じゃないと指示がわからずに馬の方が困ってしまうとのこと。軽速歩で乗り続ける練習。鐙に力をかけらないので状態をつかってなんとか重心を移動させて立ち上がる。鐙を意識して上半身を使わないように……なにもできなかった。レッスンをおわったとにキモサベの身体を拭いてあげる。馬も汗だく。タオルでゆっくりごしごししてあげる。目はなんとなく拭いているオレをみている。オレもキモサベの目をみながら気持ちいいのかなあなどと想像しながら強さを変えたり場所を変えたりして様子をみる。おもったよりも強めが好きそうだけど次回も見学しよう。最後におやつのニンジンをあげる。ぎゃー、ニンジンを発見したときに目をひんむくのやめろ。それれヤバいヤツの目だぜ。むふーむふーと鼻息があらい。いろいろと話かけるがニンジンしかいてなくて、ニンジンをよこせええ、の状態。しょうがないな、ほれほれ。ざくぎりにしたニンジンだががつがつたべる。他の人はもうちょっと細かくしているものをあげているようだけどオレは面倒くさくて三等分にしただけだ。ちょっと意地悪してたべたの? というと顔を近づけてきて鼻息でむふーむふーする。かわいい。全部あげちゃう。全部たべおわるとバイト厩舎員のお姉さんに引かれていきました。どなどな。あー、キモサベと一緒にいるが楽しい。でもお財布が軽くなっていく。悩ましい。

家に帰る。冷凍お惣菜で冷凍白飯の大量食い。午後はフリー。海に行くか、カラオケに行くか。診察にいくか。カラオケ、また来週行けば良い。今日は暑いし海も良さそう、だがちょっと乗馬で疲労感が残っている。やりたくないものからやる。診察か。前回から二週間経ったし、復職したしいくか。
また山を二つ越えていく。女縄市に抜けて戻ると獲得標高が四百メートル近く。ちょうど良い運動だ。行きはは追い込まない。だがギアが足りない。勾配一〇%超えでは心拍一七〇近くになる。フロントシングルがなあ。フロントを歯数を減らすか。この自転車だとトップスピード使わないしなあ。次回の定期点検でショップの人に聞いてみよう。まごころ癲狂院につくと患者が多め。これは一時間以上待ちだな。自立医療支援制度の新規申請を済ませたことを窓口にいうと、「申請の控え」がほしいとのこと。しまった、受給者証ができるまでは控えといわれていた。窓口の方は淡々と対応してくれる。では、こちらから我文町役場に確認しますが、大丈夫ですか? オレはもうしわけなくうなずく。「あと、すみません、マスクをわすれまして、受診できなですよね…」というと「マスクありますから」とマスクをいただけることに。医療関係者の方には今後のことも含めて一枚でも大事なはず。申し訳ない。甘えさせてもらう。まごころ癲狂院が山中にあることもあって、街にくだってマスクをかってここまで戻ってくるには相当骨がおれる。オレのせいなのでそうでしかるべきなんだが感謝しても感謝しきれない。
これまでの感じではまごころ癲狂院は内科の患者が多いイメージだったが、今日は精神科の患者が多いようだ。オレをちらちらみて遠くの席に移動するかた、ご両親と一緒に診察に来られた方。こんなに自然豊かな土地ならば健常でないという状況でも自分らしき生きられているといいなあとおもう。記述精神病理学的な仕草、相貌、盗み疑義した会話から何かを判断したくなることもある。でも歌穂がいっていたようにオレはそれをするのをやめた。オレや@liceがそう棲まいたいという世界と彼らがそう棲まいたいと思う世界は異なる。そしてどちらが優位ということもない。ただ、前者がより新しいアートのように見える。
うとうとしはじめる。一時間一〇分ほど経過していた。「kowasuhitoさん」名前がよばれると診察室に入る。なぜか今日はスイッチ全開、食木崎先生の眼球を凝視してやる、と意気込む。しかし目があわさるたびにぎゃーとなって、会話を考えているふりをして目線を泳がす。まだまだ、今度が本番だ。ぎゃーああああ、目が目がぁぁぁぁぁ、エクリの背表紙をみてやっぱりラカンはいいな、などと現実逃避するしかない。終始この試みは続けたが、目の奥の何かが見えないなにかでくすぐられているような不快感に耐えられなかった。でも一つ、経験を得た。先生も視線を絶えず動かしている。ずっと凝視する必要はないのだ。ではいつ、視線をそらしたらいいんだよ……
診察の内容は復職を積極的に支持します、引き続きやってください、わたしくの見立てではほぼ寛解期にはいっています。オレにはそれが見捨てられるようにも感じられる。転移しているのを知っていてそれを言うのならまあ大丈夫なのだろうという、オレが素人知識をつかった裏読みをする。その転移は社会や会社の働く部署、チームに移っていくのだろうと食木崎先生は確信をもてているようだった。オレはなんどもなんども、食い下がって復職後の失敗した場合のブランBの話をしたが肯定したあとには、大丈夫復職できる、というストーリーだてであった。個人的には完璧な回答だ。でも食木崎先生、なにか精神科医的な面白いこといってよというのはちょっとだけ思う。オレはダメな人間だからさあ。
食木崎先生はオレが話し出さないのを確認するまで話さない。そこは徹底している。膝と膝がぶつかるぐらいの近さで視線があっている。そこ状態で沈黙は一秒だってつらい。コンマ五秒あいたら心がざわめく。オレは我慢してみる。すると食木崎先生は雑談を始めた。名破市は何もなくてつまらないでしょう、移住してどうですか、と質問する。意外な質問。意味を考えている暇はない。オレは素直に回答する。とてもよいいし、馬も海も山も道も温泉も最高だと返答する。シュノーケリングしてるんですかと感心されて、釣りもよいですよと進められる。釣りもヤマシタさんに教えてもらおうと、来年には、と返す。ヤマシタさんは友人ですと答えると、意外そう。だよね、わかる。釣りってモチベーションがわからないじゃないですか、というと先生も同意した。でも先生も釣りが好きなんだ。なにか深いメッセージを感じる……。転移を利用した悪辣な治療だな。その治療を感じ取ったのでオレは先生を攻撃する。正しい患者のあり方だ。最近、飲酒量が制限できなくて。前のドクターは問題として捉えていた行動。食木崎先生は酒量をたずねてくる。休肝日を意識しているし多少飲んでもいいんじゃないですか、と答える。人にはそういうのも必要ですよという。これまでに聞いたことのない回答が返ってくる。薬も飲んでいるのでお酒は控えてください、が平均的な回答だし、否定的なニュアンスをだしたうえで多少は仕方ないという形になるのだけど、肯定してくるという荒技である。転移を利用された。これでオレは酒量をコントロールする制限をさせられてしまった。裁判に負けて治療に成功する事例じゃないか。なんだろう、この転移治療に役立つならこのまま転移しておこうとなってしまう。手のひらの上で踊らされている気分だ。しかし、こういった先生に巡り会えると嬉しくてもっと病気になりたくなるから不思議だ。疾病利得を痛切に感じる。詐欺師にあったらイチコロな気がしないでもないが。

診察がおわると薬局で薬を受け取る。自立医療支援制度によって支払金額は抑えられている。とても助かる。せっかくだから海をみて帰りたいとおもい寄り道をする。途中にとんかつ屋さんがある。食べたい。いまの時節なら、外食も気をつけていけばいいはず。時間がはやかったので店内は誰もいない。オレはとんかつ定食を頼む。とんかつ、オレが大好きで大好きでしょうがない、あの食べ物である。最後の晩餐はお刺身定食かとんかつ定食か、甲乙つけがたし。ソースたっぷりでいただくのが好き。まずは薄く全体にかける。そしてキャベツさんもソースをさらっとかける。キャベツをいただく。そうそうそう、とんかつやさんのキャベツはこうでなくてはいけない。オレは切ったばかりの生キャベツだと歯が「きゅーーーーっ」ってなってパニックに陥る。水に浸して、柔らかくなった千切りのキャベツことがとんかつ天国へ道をお膳立てするお野菜なのである。新鮮ならよいだろうとこのしんなりが足りないとんかつ屋さんのなんと多いことか。歯が「きゅーーーーーっ」ってならないのはこのぐらいにしんなりが大事だし、このしんなりはとんかつのさくっ、ふわっ、じゅわーの食感と非常に相性がいい。箸がとまらずに一気に食べきってしまう。白飯がたりなくなってしまう貧乏性が発生してしまったが、次回の改善ポイントとして大盛りを注文しよう。とんかつはそもそもけっこう、値がはるものだが満足度としては納得。またこよう。退店。

もう夕暮れ。家にかえる。山を二つこえる。とんかつがエネルギー源となってペダルを回す。あえて視線を遠くにうつす。山の木々が立体視されこくいっこくと形を変える。風が吹くと木々がざわめく。おちかけた陽が山の間から差し込んで綺麗に照らす。久しぶりに色を感じた。

家に帰るとへとへと。風呂に入って汗を流す。今日は人に会いっぱなしの日々だった。倦怠感はないしオレが感じている倦怠感がでてこなかった。自己が立ち上がっていたらなんともないとすれば、オレの部屋はおれの棺桶じゃないか。そしてこの冗談がなんか冗談じゃなくてなにか考える余地がありそうな意味がありそうじゃないか。オレってなんなんだよ。誰かおしてくれ。あやならしってるだろう。

6月24日(水)

アラームの二分前に覚醒する。良し、いつもの調子だ。眠気がとれない。身体は少しだけ重い。休職前に比べればすごくいい。まるでただの朝が弱い人間のようだ。希望がある。実際はないのだけど、でもないものが認識できている。この幻想がいまのこところ、個人的には希望と呼べる。
転がって起きる。一番いやな洗い物をやる。苦痛の結果、綺麗なシンク。象徴的な行為。朝風呂にはいる。熱々のお風呂で半身浴、ストレッチ。身体が硬いのだけどストレッチの効果でやっと手で足の親指に手が届くようになった。毎日コツコツ。風呂を上がったあとは半袖短パンに着替えてゆるくポタリング。田園、小鳥のさえずりを聞き、ちょうどいい温度の風、背景になった遠方の山はゆっくりゆっくりと立体的に動く。時間と空間と感覚がつながると脳汁がでる。口笛を吹きながらのんびりのんびり。あとはもう少し理性が働いてくれたら良いなと思うが、まあいいや。家に帰ると少し汗ばんだTシャツだけを取り替える。いよいよ仕事だ。
久しぶりに Slack にログインする。大量のチャンネルに大量の未読。どこから読んでいくかも想像がつかない。とりあえず自分のカレンダーを確認して余計なミーティングが入っていないことを確認する。雑談チャンネルで復職を報告するとアイコン芸人たちが歓迎してくれる。個人情報に関することなので体調不良でお休みするとしか言っていない。まあだいたい分かるだろうから良い感じに距離をとって迎えてくれたのだろう。大げさにならないのは助かる。休職前に所属していたチームにはまだ戻らない方がいいということだけをマネージャーとは認識があっている。あとは指示がないので、オレがしたいようにする。休職していた期間の情報を手に入れるという目的を達成するために Slack をながめ続ける。チャットメッセージは流れていくものなので、モチベーションを起点につくられる議事録や資料のようなドキュメントのほうがインプットしやすいのだけど、往々にしてそのドキュメントの起点、動機がチャットメッセージに埋め込まれていて、ドキュメントの方には議論内容や結果しかのっていないことがある。下手をすると決定したことを残していない議事録もある。その場合は、参加者に聞いて回るしかない。必要な情報と必要じゃない情報を直感的に見分けながら、漏れしかたないものとして情報を発掘する。ピンポンのよう長文メッセージをやりとりしているパターンがあり、それがとくに部署をまたぐコミュニケーションが多い。部署をまたぐと一気に Google Meet を使うのが難しくなるようだ。相手に人となりをしらないという恐怖から丁寧になりすぎるし、オンラインで話しましょうと言い出すのが難しい。技術的な議論であっても小さな問題提起が散発的になされているが、断続的にやりとりがおこなわれフェードアウトしている。これでいいのだろうか? プロジェクトの議論は専用のチャンネルで議論されているもののオレにとってはメッセージ数が多すぎる。アジャイルでは対話コミュニケーションを重視する。企画段階なのか、開発段階なのか、その段階のなかでなにをしないといけないのか、それを推進、決定するためのステークホルダーは誰か明確になっているのだろうか。ようはインセプションデッキができているのか。
自分が関わってないものを叩くのって本当に楽だなと落ち込む。気が滅入ったので気分転換にランチは外で食べることにした。バックウォッシュにいくと宮内さんが笑顔で迎えてくれる。今日は宮内さんのお知り合いのご夫婦も来ている。オレは常連になりつつある気がするので、スマホをいじいじしてお話の優先権をゆずらねばとわけのわからない配慮で変な緊張をする。そうだ知らない人が近くにいることに緊張してるんだ。心臓がどくどくいう。脇汗がとまらない。知らない人に会うときは、そのつもりで部屋の外にでるし、世間話の準備もある。唐突な来訪者には適応できない。オレは大盛りプレートランチを注文し、あとはひたすらに食べ続ける。場は落ち着かないけどうまい。満腹になったのでお会計。宮内さんと他愛ない会話を交わす。うむ、自己が起動したはずだ。あやにもこれは満足しているはずだ。
午後も同じ作業。新入社員の情報を頭に入力する。人が怖いので突然話しかけられても何らかの事前知識は欲しい。けっこう多趣味な人が多い。音楽の鑑賞するほうと演奏する方、ラノベ、アニメ、スポーツ観戦とやるほう。まあこのへんを抑えておけばなんとか話ができそうだが……今の地力でなんとかなるしよう。音楽も興味もてなくなってるし、アニメやラノベも。みんながやるような団体スポーツにはやっぱり興味がない。はやく友達ひゃくにん作りたいなあとつぶやいてみる。声は嘘を本当にしてしまう効力がある。次に完了したプロジェクトや始まったプロジェクトを仕入れる。新型コロナウイルスの会社の取り組みや勤務態勢。在宅で働き給え、と会社はいってる。でも在宅での働きかたを考えている人はいない。生産性が上がったとも下がったとも計測すらしていないし評価すらしていない。下がっている前提ではやく通常勤務に戻したいと思っているんだとしたら、がっかりである。オレが休職しているあいだに組織は成長せずに、ただ粛々ととプロダクトにたいする開発を行っていたのか。採用を強化するのはいいけれども、いまある組織の効率性向上がなければ単調な成長とコミュニケーションコストのボトルネックで頭打ちになる。組織成長の取り組みにこそ投資し、そして失敗を恐れずトライしないと。
不思議なことに、頭の中は休職前と同じにまき戻る。でも心はすさんでいない。今はどこにも期待していない。心は晴れやかではないが重いわけでもない。退勤時間になり退勤する。エンジニアとは誰ともメッセージを交わさなかったしオンライン会議もなし。仕事のなかでもまなざされる時間がないと問題が起こりそうだ。まだ初日、落ち着いて様子をうかがおう。リモートワークの中でも自分の中で組織の世界を投影できるようになる。それまでは情報のインプットをして気になることがあればポエムを書いていればよい。
仕事は時短でさっと退勤。 Slack からはログアウトする。強迫的にアプリを立ち上げてしまうので大事。心にスキマができた瞬間、オレは無意識にソーシャルアプリを開いてしまうクセがある。何も考えていない状態というのが不安なのだ。座禅でもその恐怖を目の当たりにしてしまっている。座禅ももうちょっと本気で取り組んでいきたいところだ。

仕事終わり。ぼーっとして、力が抜けたところで少しだけ執筆作業。でもあまり身が入らない。自己を立ち上げた日は、自己が立ち去るまで内的世界に没入できないのかもしれない。根拠はないけど、たたけないキーボードの前でなんとなく考える。
今日の予定にあったエクリプスの打ち合わせはメンバーが集まらなくなったので延期。せっかくなのでペダルを回そう。久しぶりのインドアサイクリング。今日は本気で追い込む。ポタリングばっかだったのでトレーニングができてない。どんだけ落ちてしまっただろう。Alpe du Zwift を走る。トレーニングしていたときは五〇分を切れていた。今回は六〇分切りを目指す。Alpe du Zwift の入り口までウォーミングアップ。負荷をかけて少しでも身体を作る。スタート手前で三分ほど休憩。室温は二五度でちょっと不利。エアコンがあればもうちょっと下げたいところなんだがまた設定できていない。負荷をかけてかけまくる。脳内から他者を追い出す。あやが応援してくれている。あやは他者ではないんだな、そうか、そうなのか? あやはオレがみていることに気づかない。一五分経過、これで四分の一か、もつかな、心拍一七〇、足はまだ残っている。三〇分経過、たぶん半分ぐらい。このペースを維持するのは無理だ、足がそうとう来てる。酸素が足りない、自転車のハンドルポジションが最悪、ディレイラーが調子わるい、水、水、水。息、息、息。もうだめかもわからんね。心拍一八〇。心拍が早くなればなるほど反比例するように時間の経過速度は遅くなる。苦しみあがいたのに一分しかたってない。この一分を何回繰り返せばいいんだ。感覚は苦痛、それを拒否してペダルを回す信号を送るだけの簡単な脳内活動。悟性だけが試される。またその感覚によって外的世界から侵入した他者は相対的に縮小、後退していく。四五分。視界がチカチカする。弱気になる。そしてその弱気を見透かしたように後続のプレイヤーが張り付いてくる。さっきパスしたときはまだ余裕があったのか。オレが三倍で踏んでいるときに相手は四倍、ここまできてよく余裕があるな。オレの足は死んでいる。ローギアにいれてケイデンスで逃げる。ラスト一キロ。遠い。時間の感覚が止まる。呼吸とそのリズムだけを知覚するからだ。ペダルをまわせるだけまわす。相手が戦う意欲をなくすことを期待する。半分はったり。三秒差、コールまであと五〇〇。長い長い二分間。ゴール予想時間をみているしかない。その時間まで回せば終わる。ゴールタイムが五十七分。六十分は切れた。汗がとまらない。足が他人のものみたい。応援していたあやいなくなっている。へろへろの状態でプロテインを飲む。汗がとまらない。水、水。吸収できなくてもいいから水をがぶ飲みしたい。みずみず。二十分ほどベランダでぐったりする。
汗を流すためにお風呂。疲れすぎてお風呂のありがたみすら感じない。ただ半身浴でぼーっとする。ぼーっとしながら今日の反省をする。こんな時にも仕事のことを考える。
ツリー上の組織階層において組織の長は、その領域のスキルが突き抜けた高いわけではない。いわゆる発言力、巻き込み力、突破力、決断力、実行力のスキルが高い人たちだ。会社の目標設定においてはそういうスキルが価値の高いものとして評価されている。でもこれは誤った価値観だ。その手のコミュニケーション能力は個体の特性によるところが多く、代替が難しい。人の退職によって組織の存在を脅かしてしまうし、組織が人に紐付いてしまうと非常に弱い組織になってしまう。正しく進むためには正しい問いが必要だって偉い人がいってたよね。つまり私たちの正しい問いは次のようではないか。
「なぜ発言できずにいるのか、なぜ周囲を巻き込めないのか、なぜ困難や課題を認識しながら突破しようとしないのか、なぜ課題や困難に対する方向性やアクションを決断できないのか、なぜアクションを実行できないのか」
私たちはなんらかのビジョンに向かってチームを結成する。そのビジョンに向かうときに結果でてくるものが発言力、巻き込み力、突破力、決断力、実行力だ。チームが正しい目標設定と正しい動機づけができていれば、必然的に必要なアクションがとれる。そのアクションの結果が発言力、巻き込み力、突破力、決断力、実行力だ。発言力、巻き込み力、突破力、決断力、実行力が先にあるのではない。会社が評価すべきなのは組織のビジョンの理解、チームビルドの能力、またスクラムマスター的な能力あるいはアジャイルコーチの能力、およびその前提での発言、決定を強行しないサーバントリーダーシップではないだろうか。
この気づきはオレを気楽にさせる。オレが無理に突破しようとしたり決断、実行していたのは他者からみればどうでもいいことだったのだ。なぜなら動機づけできてないメンバーは他人ががんばっていてもそこにコミットしていく強い動機はないからだ。

Zwiftで自分から他者を追い出したあとの執筆はすこしまし。追い込みすぎると延々と動悸が止まらない。まあ身体に良いわけない。心拍ゾーン5はオレにとってデスゾーン。今度からZwiftするときは家の鍵を開けておこう。早めに気づいて処理してほしい。西洋哲学的な主観的正しさに立脚する組織ではなく、西田幾多郎的な常に相互作用しつつ立ち上がる正しさに立脚する組織のほうが持続性や強さに期待を感じる。

明日も仕事だ気が重い。仕事ってなんだろう。オレの良心とは給料分の仕事はするということなのか。無遅刻無欠席で仕事することに意地になってるってなんなんだろう。会社はオレに自由に任せてもらえるチームを与えてはくれない。友達百人とかバカなことを言っている場合じゃない。友達でなくていいから三人、いや二人でいい、新人でもよい、仮説検証を実践させてくれれば少しはやる気がでるのに。プロダクトに成果がでるのは先だろうが、そのプロセスと方法試論とその検証結果をもってそれで失敗したら責任をとって会社辞めてもいい。しかし会社辞めれば許されるっていういうことなんだろう。制裁なのだろうか。むしろ自由。じゆうだああああ。去人たちみたいな実験だけど、それはそれで楽しいんダヨ。

少しだけお酒を飲む。二十三時過ぎに薬を飲んで就寝。

6月23日(火)

肌寒くてなんどか目覚める。薄いタオルケットにくるまって繭になる。それでも限界になって起き上がる。八時。身体は少しだけだるい。前日の酒量を抑えたのもあるかもしれない。自分の体内に蓄積されている勇気だけで身を起こせそうだ。歯を食いしばる。握りこぶしを作る。起き上がる閾値を超えるまでに数分の時間がかかる。トイレで排尿して開けていた扉を閉める。曇り空で風が強い。座椅子に腰掛けて外を眺める。ネット配信のニュースを垂れ流して世界との同期をする。同期をすることでオレは自己愛的ないかれた世界から社会的生物へ墜ちる。けっこうなことだ。明日から仕事だ。
食欲がない。コーヒーを淹れて一口飲む。つまらないニュースばかり。新型コロナウイルスの対策についての過去の検証は行われず、今後のミッションやビジョンも提示される日常生活の中の心がけに落ち着いたようにみえる。面白くない国になってしまった。民度とかやらでそれがうまくいったとしても、国として成長する機会を喪失してしまうのは残念だ。

まだ社会的世界が立ち上がりきる前に、少しだけ執筆作業をする。
一段落すると自閉症について知識を仕入れる。

現在は自閉症ではなく、自閉スペクトラムという概念でこれまで「自閉症」「アスペルガー症候群」と呼ばれたものを表す。DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル による診断基準の概要は素人には難しい。

自閉スペクトラムの診断基準概要

ABCD の4つの基準を満たしていること

A. 複数の状況で社会的コミュニケーションおよび対人的相互反応における持続的な欠陥

  1. 相互の対人的―情緒的関係の欠陥
  2. 対人的相互反応で非言語的コミュニケーション行動を用いることの欠陥
  3. 人間関係を発展させ,維持し,それを理解することの欠陥

B. 行動,興味,または活動の限定された反復的な様式で下記の2つ以上を満たす

  1. 常同的または反復的な身体の運動,物の使用,または会話
  2. 同一性への固執,習慣への頑ななこだわり,または言語的,非言語的な儀式的行動様式
  3. 強度または対象において異常なほど,きわめて限定され執着する興味
  4. 感覚刺激に対する過敏さまたは鈍感さ,または環境の感覚的側面に対する並外れた興味

C. 症状が発達早期から存在していること

D. 社会的・職業的生活上の障害が生じていること,知的障害やその他の発達の遅れではうまく説明できないことなどが確認された場合

素人の自己診断でかつ楽観的に考え当てオレにあてはまるものは

  • 対人的相互反応で非言語的コミュニケーション行動を用いることの欠陥
  • 人間関係を発展させ,維持し,それを理解することの欠陥

ぐらいだろうか。具体的には視線を合わせられないとか、人狼のような想像遊びがまったくできないとか。毎朝シリアルを食べるとか、朝の儀式とかも反復の行動様式といえるが、それをやめることには苦痛はないし、自意識のなかでやっていることなので考えないことにした。極端な話からはいったが、オレが自閉スペクトラム症にはならなそうだ。補足として、自閉症の診断基準を一部満たす症例がアスベルガー症候群と名付けられた。また「発達障害」とは病名や診断名ではなくただの行政用語。自閉症アスペルガーADHD、LDなどの障害で低年齢において発現するものを指す。カテゴライズのための便利な用語だった。このあたりの関係が理解できたのはよかった。
では、問題を分解する。では客観的所見として見受けられる「自閉」とはどのようなことを指すのだろうか。
自閉という言葉はブロイラーによって一九一一年の論文で初めて使われた。ブロイラーはこの言葉を「外的世界からの活動の離反を伴う内的生活の優位」と定義した。精神世界における関心事の向き先の問題であり、対象者の精神荒廃や内的エネルギーの障害ではなさそうである。「外的世界」、「内的生活」とはなんなのだろう。オレが好む語感の用語。思考を楽しみたいので外部記憶の参照を中止して空想する。外的世界とは自身が認知している世界であり、その中にオレが配置されているということか。では内的生活とはなんだろう。内言語というものがある。オレは考えるときに頭のなかで言語が聞こえる。しかし具体的な他者との会話においては聞こえない、あるいは認知できないほどに小さくなっている。外的世界を理解するのに内言語を使う。空が青いという内言語を通して外的世界を認知する。おそらくこれは自閉ではなさそうだ。内言語をつかって外的世界以外について言及している時間、結果それにともなって行動する時間が内的生活ということにならないだろうか。内言語の向かい先は自意識を超えた他者でもあるような気がする。他者は外的世界の他者のように身体的、精神的一貫性があるとは限らない。むしろバラバラの方が多い。そういった認知も難しく対象としてとらえることも難しく想像することすら難しい他者らによってオレは長くて変化のない内的生活に偏っているのではないか。

お昼になる。あまり腹は減っていないが何かたべておこう。パスタを茹でる。沸騰するお湯を眺めながら、仮説の上に仮説をたてて思考するのは自己を感じることができる少ない内的生活だったのかもしれない。自分としてはなんとなく納得できる。パスタを食べ終わり、風呂に入る。

昼下がりの恐ろしい倦怠感に身を任せたい。少しだけ横になる。そして気合いで起き上がる。「自閉」に関する理解を深める。自閉症の現象学 では「自閉症児は時間流の感覚を持たない永遠の現在に生きている可能性がある」という。自閉症児はドゥルーズが「意味の論理学」の中で書いている「ちゃんとした方向付け」を喪失しているからではないか。なるほど、オレは不思議の国のアリス症候群の現象学的解釈を身につけたぞ。これに似た事例を自分の中を探索する。色覚異常をもっていて細やかなな濃淡を区別することが難しい。絵の具には色が書かれているので、色の合理性ではなくそういうルールで並べることはできる。オレが同色系の微妙な濃淡が与えられて落ちていく太陽を描いたら色がパカパカしてグラデーションにならない気がする。極論すると、連続性をもった色彩ではなく、点在し一回性をもったRGBに還元できない記号。
また自閉症の子どもは視線触発を拒絶しているという。他者のまなざしや呼びかけが自分に入ってきたら困るということ。このような志向性が侵入してくるとパニックになり、自分の世界が崩れてしまう。自閉症スペクトラムの精神病理: 星をつぐ人たちのために では自己がまずあって、外の世界の対象を認識するのではく、むしろ対象である物事や人から視線触発されることで自己を立ち上げるという。他者が先になければ自己は立ち上がっていないということらしい。オレが苦しくも悲しくも楽しくもない時とは、他者がおらず、自己が立ち上がっていないときではないかと仮説が思いつく。またまなざしを避ける理由は安定した自分の世界にとどまっていたいからであり、他者の侵入を避けるためである。結果、オレの自己はほとんど立ち上がらずリビドーは滞留して意欲は減少し抑うつ状態になる。考えてみれば通勤や出社で一日の多くの時間、なんらかまなざされる可能性があった。テレワークが主流になることで完全に丸一日にまなざされることがなくなった。通勤や出社によってかなりのストレスを感じていたが、そのストレスの正体は立ち上がった自己の過活動によるものだったのかもしれない。テレワークをはじめて最初に充足した時間は枯渇したリビドーの回復で、それ以後はリビドー代謝の低下によるうつ。枯渇と循環停止の別の理由によるうつがオレにはあったのではないか。
しかし、その仮説が正しいとしてオレはなぜ自己を立ち上げ、その自己でもってどのようにこの世界に棲まいたいと思っているのだろうか。そしてオレが誰にもまなざされずにこうして考えている状態をどう考えるのが良いのだろうか。立ち上がる自己というのは何種類かあり、このように他者を必要とせず自省していることを認識している自己とは何が違うのか? あるいは内在的に他者が存在して明示的な外部他者を必要とせずに自己が立ち上がることがあるのだろうか。あやは誰なの? あやは答えない。だめだ、原書をしっかりよんで原理原則を理解しないとこれ以上は建設的な議論ができない。
脳内キャッシュをフラッシュするためにサイクリングにでかける。羊鳥ヶ岳周遊コース左周り。身体と自己の関係をしっかり観察したい。追い込む。心拍一八〇。汗と呼吸、その音、ペダルのリズム。折り返し地点で少しだけ絶景を眺める。身体が後景化する。オレがいま立ち上がっていないなんてことがあるのだろうか。ふたたび追い込む。身体の要求を拒否してペダルを回す。このペダルを回す意思は自己に由来する? しない? ゴール地点でハンドルに寄りかかり息を整える。不思議なもので今までの走行が幻のようにも思える。サイコンのデータですら、認識の結果であり、それが幻でないことを反証するものではない。泥沼だ、今日は止めよう。伊花多ヶ浜で海を眺める。いつもより波が高く迫力がある。頭を空っぽして家にかえる。

風呂に入り軽く執筆作業。日が暮れてくるが腹がへらない。追い込みすぎたかもしれない。ヨーグルトだけ流し込み栄養を補給する。

エクリプスの企画を考えなくては。動機付けがうまくいっていないので着手の仕方がわからない。動機付けうまくいかなくてもうまくパターンにのっけるしかない。手を動かしてみる。掃除といっしょでやっていくうちにモチベーションがでてくる。そのためには起動のためのエネルギーだ。先払い報酬を採用する。お酒を飲んで動画をみていいので、そのあとに作業に着手すること。

お酒を入れて意識が軽い変容をする。山へ自分を殴りにいく行為は、他者性への反撃ではないかという仮説である。他者を排除できない状況にさらされた自分が事後的にその葛藤を乗り越える。なるほど、ノゾミのことは理解できないが、ノゾミがどのような世界に棲まいたいかは想像できる。十四歳も末期になって@liceと会話できたことは収穫だ。

さて、エクリプスの企画を考えなくては。上記の世界の辺縁で過ごすうつのオレには正直きつい。よかったときの思い出を思い出そう。@lice とは方法論をずっと話していた。それはゴールがなかった。なるほど。ん? では去人たち2とはなんだったのだろうか。冷や汗がでる。置いておく。ヤマシタさんとは分業で一緒に創作はできなかったが、創作方法論を議論するのが楽しかった。共感するとはなんなのだろうか、美少女とはなんなのか、劇中におけるセックスとはなんなのか? プレイヤーがゲームをプレイし始めるとはなんなのか? ノベルを文章を文節を単語を読むとはなんなのか、キャラクターが表示されるとはなんななのか? あらゆるものは記号にすぎないのか? パーソナリティをもつ記号とはなにか? 場面に沿った音楽とは何なのか? なぜミュートしてプレイするノベルゲームは臨場感がないと感じるのか? 感情移入とはなんなのか? 文字を理解とはなんなのか? 物語を理解したとはなんなのか、理解が人ごとに異なるのは何故なのか、ゲーム批評とはなにか、なぜ批評するのか、批評は必要なのか、いまここにおいてなぜ批評が無益に終わっているのか……。必要な情報や理論を用意して安全な場所で積み木遊びしながら試行錯誤して建造する謎の秘密基地。自分専用の部屋をつくりながら増築して、最後にはショベルカーを使って埋めてしまう。わたしたちの想像遊びが終わったあと、わたしたちが想定した興味をもった読者が遺跡を発掘する遊び。そういった読者は想像より少なかったがゼロでもなかった。妄想だけでやりとげた十二歳児にとっては大成功であった。でもいま立っている場所はまったく違う。外的世界と繋がっているし、オレはその世界において丸腰。だからといって武装したいわけではない、ただ逃げ出したい。外的世界とはつながれないが内的世界の延長としてノベルゲーム世界を作り上げればそれとは接続可能かもしれない。そこにおいて関係性を気づくことができれば、さらに延長として外的世界につながれるかもしれない。創作物が立ち上げる世界を代償世界として間世界性を構築し、外的世界と接続するというのは良いアイディアに思える。その創作物こそが対象aである、というアイディアも面白いのではないか。受容者はその創作物によって「ーφの、現実界における対応物」と遭遇し外的世界から離反してしまう。そこは感情も超えて自己を危機に陥れる。
仕入れた知識にすぐに引っ張られる。意識が薄弱で自己がからまない惰性のアイディア。論理的整合性をかき直感的にひらめきに頼っている。