kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

8月14日(金)

仕事で人と話してばっかりいる。Aという事物に関して多角的な観点を得たいと思っている。だからAと様々な観点から関わっている人にお話を聞く。Aという事物に対して共通の意見も出てくれば全く真逆の意見もでてくる。サラリーマンはその『差異/差延』に気づく能力が低い。どうしてもこじんまりとしたチームを作って部分最適して満足してしまう。diff の中に将来性や発展性を予感しているにもかかわらず、その予感を無視する傾向がある。もやもやしていることを言語かしようとせずに、結論に達する傾向が強い。これは哲学を引用して強調することでもない。もっと根源的なものだ。『差異』についての WHY を考えることを拒否しているからだ。たちが悪いのはエンジニア的な論理的思考であって、短絡的な結果を追求するあまり、自己内省、自己言及がおろそかになっている。結果、自分に都合の良い結論にたどり着きやすくなっている。つまり「差異」を認識しているが「差延」については無頓着なのだ。ソフトウェア工学は発展した学問で最終的決定は揺るぎないのだ、といえる人がどこにいるのか。人の作る物で揺らぎのないものなどない。そしてその人であっても、その人がスーパープログラマー、スーパーギーククヌース先生であろうとある真実の「差異」として正しさを語ることしかできない。これを敷衍すると我々はどこまでいっても正しさの真理にはたどり着けない。だからこそ、我々のアーキテクチャには「差延」としての正しさが誠意として必要だと思う。

前日は人と話しすぎて疲れて十二時間の睡眠を必要とした。日の出とともに目が覚めるが、目が開かない。今日が生き生きとしていない。今日の目標もない。でも、それがいつもの一日である。起きて、朝のルーチンワークをする。えらいことに食器を洗った。あやが褒めてくれると思ったが、本を読んでいるだけ。最近なんの本を読んでいるのか気になる。
朝練のタンブルウィードにいく。今日もキモサベはかわいい。馬さんのかわいさを表現したいが言語化はむずかしい。たぶん、小動物的なかわいさは世の中にあふれている。猫さんや犬さんである。オレもエンジニア業界のムツゴロウさんであるからして犬さんや猫さんはかわいさにあふれているとおもっている。だが馬さんのかわいさはそれと比較して異質であるといわざるをえない。馬さんのパワーは人間がどうこうできるものではない。絶対的に人間より上のパワーを持っている。草食動物という前提からして警戒心が最強でちょっとしたことでもびっくりする。びっくりすれば、人間を振りほどく圧倒的パワーでどうにでもできる。そこで生まれるのが、馬さんとオレの関係性であり、人間と馬さんの力場のなかでの緊張感のあるコミュニケーションなのだ。馬さんが本気で暴れたら人間には制止する能力はない、という前提がある。乗馬すると分かるが、馬さんのチョットした身震いや足並みのズレでさえも大きな変位と感じられる。一方で馬さんは人間を信頼して身を委ねて身体を綺麗にしたり乗ったりすることを許してくれる。馬さんとの関係とは言葉を介せずに安心して拒否し合える関係とも言えるのではないかと考えてみたりした。オレの勝手な解釈としては現象学的世界観の中で生物学的、神経生理学的な由来を発端として世界観をぶつかり合わせるエキサイティングな場と捉えてみた、ということになる。その仮説立てと先生のコーチングを組み合わせるとさらに深い知見が見えてくる。オレ個人の乗馬スキル、経験の話。馬さん個体の話。それは相互作用、相互依存でかつ汎化は困難。究極的に汎化したとしても、あるオレとある馬さんAでそれがうまくいくとは限らない。究極的に汎化した上で、あるオレとある馬さんAの中の関係のなかでよりよい乗馬関係があるだけなのだと気づく。そしてそのような理想については無限遠の未来まで留保され続けるのだと理解する。

家に帰って仕事をする。部署を越境してお話するのだけの簡単なお仕事。簡単なお仕事なので誰か変わって欲しい。どの部署も何も未来を考えていない。不思議に思う。なんでだろう。目の前にあるタスクをこなしていれば安心、というマインド。変だな、おかしいな。休憩するとひらめく。未来を楽しめていない、不確定要素を認識したうえでそれを不安に思うからこそ、他人まかせにしたいという極端なバイアスがかかっている(=部分最適に満足する)傾向があるように感じた。
なんでオレがこんなことをしているのかな。オレがやりたいことじゃないのに。でも誰もやらないから。誰もやらないから。誰もやらないから。去人たちも誰もやらないからしかたなくつくった。誰もやらない。どこにも需要はない。おかしな人たちだけが手に取った。それはとてもありがたい。でも、それがゴールじゃない。

薬を飲んで寝る。

8月12日(水)

今日はエクリプスの打ち合わせがある。前日はなるべく早く寝ようと試みた。布団に入ったのは二十四時前。結果、寝たのは二十五時ぐらいだったが、比較的良い寝付き。寝たりないのだが、スヌーズとの戦いを短めに終えて、仕事を開始する。

今日もチームビルディングのドキュメンテーションをメインにこなす。午前中は我々のチームにジョインした浦野さんをマジえてモブプロをする。エンジニアはどうしても課題に対するソリューションを時間的に最短で終わらせようとする。オレも当然その傾向がある。浦野さんも課題の理解とその解決のための成果物をはやくアウトプットしたくて早口になる。シニアエンジニアの丹波さんも同様。議論のショートカットがすごい。事実と意見がごちゃになる、次に何をやるべきかとなぜやるべきかが見えなくなってきて、調べたいから調べるという袋小路に入り込む。損な役回りではあるがオレは抑え役をやるしかない。What が出てくる度に、なぜ?と問う簡単な係である。賢い愚者パターン。解決までのプロセスをWHYによって意識的に整流化するクセをつけることで、大規模プロジェクトにおいてもより正しそうなプロセスを選択できるようになる。これはエンジニアの見えないスキルだ。難しいのは正しい問いを立てることだ。正しい問いに対して正しいプロセスを経て課題解決に挑戦できるか。表面的な技術以上に大事。しかし指標化されないので評価されないし、「難しい課題を解決した」という理由でその過程ではなく結果でなんとなく評価される。難しい課題を正しいプロセスで成果を出せない場合はもちろん評価されない。これは間違っている。
午後はチームビルディングの思考実験。社内のアジャイルギルドのチャンネルで出来たばかりのチームはいつチームビルディングをしたほうがいいのだろうかと問いかけてみる。課題感を感じるからチームビルディングをするとモチベーションは上がる。課題感もないのに、スクラムマスターがチームを成長させるためといってチームビルディングを主導するのとでは変わってくる。うちの会社のスーパーギーク増田さんが答えてくれる。チームである必要を現状の課題を出し合って議論する場を設けてからチームビルディングに臨んではどうか、という提案であった。スーパーギーク増田さんは実存しているのかどうかもわからない。とんでもないハイクオリティなオーパーツを生み出すことで有名なエンジニアである。でも増田さんの提案では解決しない気がする。まあ、オレがやってみようと思っているのだからやってみるしかない。アジャイルとは経験論によるアプローチなのだ。

仕事が終わると、すぐにエクリプスの打ち合わせ。身体はプライベート、頭は仕事。すぐに切り替えられなくて身体がびっくりする。でも仕事の頭なので議論が始まればすぐにスタートダッシュが決まる。これは夜にやるよりも遙かによい。うむうむ、これはふりかえりから良い提案をもらって実行できている、しめしめ、と思う。一旦、夕飯休憩を挟んで夜の部をやる。二十三時までしっかり議論する。後半はみんな議論でヘトヘトになっている。互いが互いを支え合い、意見を拾い上げながら進める。それでも十分高い質の議論はできている。タイムオーバーになるとみんなぜぃぜぃ言いながら退席する。企画も開発も短距離走ではなくマラソン、ペースをつかめないうちは無理はできない。最後にチームビルディングの参考意見を思い出したように聞く。なんでゲームを作りたい行方さんやラーメン大好き河合さんは、オレのチームビルディングをしようという提案にのってくれたのだろうか、という疑問だ。ゲームを作りたいのになんで企画でもなく自分たちの話をするのか、という拒絶反応があってしかるべきではないか、という質問である。河合さんも行方さんも作りたい物は直感的、肌感的にあるのだけど、それだけではやっていけないので、最終的には理詰めを使うことで競合に負けない自分らしさを考え抜いて作り上げているという前提があるとのことだった。その考える仕組みは今まで自分流だったけれども、オレのチームビルディングの説明を受けたときにそれが自分流にやっていた「理詰め」と近しい臭いがしたので抵抗なくトライできたという回答。なるほど、まったくだという気づき。課題感をもって取り組んできたことに対して、ある種のソリューションが提案されたんだという感じか。
では、オレは未熟で課題感を共有できていないチームに対してチームビルディングを主導して受け入れられるのであろうか? これは個人の話になってしまう。なぜこの組織に所属しているかは、個人の思いがある、それは強制できない。そこでチームとして働くことに共感してもらえれば課題感がなくてもトライしてもらえるだろうし、共感してもらえないならば効果的なチームビルディングにならない。なんかいやな感じがする。オレだけが先走っているのではないか。悶々としながら打ち合わせを終える。

少し執筆作業したあと、薬を飲んで寝る。

8月11日(火)

今日こそ日記を止めてやる、絶対に止めてやる、と思うが、恐ろしさのあまり日記を続ける。一度出来たパターンを壊すのが怖い。一方で、数年おきに必ずすべてをリセットして失踪したくなる。人との関係は大切だが、オレはそれに縛られて逃げられなくなって失踪する。殷々鬱々としてくると関係のなかに自分の理想を重ねてしまう。オレは耐えられないプレッシャーに押しつぶされそうになる。向こうから関係を終わりにされるのを宣告されるのを恐れて失踪する。ほとんどは勝手な妄想なのに、オレはそれを理性で処理ができない。自我が未熟だと自分と他者の区別がどうしてもゆるくなる。生きづらいと思う。

スヌーズとの一時間の戦いを終えて仕事をする。ゆるいチームで強いチーム作りの挑戦の許可証をもらってからというもの、仕事にハリがでてきた。仕事が楽しいと思うのは久しぶり。不確実性にたいして自分の仮説を試すことができることがなかった。そういう場はワクワクする。一人で立ち向かうわけでもない。誰かと一緒に立ち向かえる。頑張りがきかないオレの心身にとっても心強い。やる気をだす、成功体験を得る、ここまでが助走。みんなこの助走を忘れるからいきなり飛び出して失敗する。議論や技術的にバチバチやりあうのは助走がすんだあとだ。この仮説から試しにかかる。丹波さん、浦野さんとの雑談多めのモブワーク。アウトプット量は勇気をもって無視する。心理的安全性と1つ1つがプロセス正しいことにフォーカスする。成果を焦って順序を間違うと効果がでない。プログラマーにとっては強烈な不安感。コードを書くことは沈静作用がある。しかしその WHY を忘れるとただのオナニーである。正しく書くためには WHY を理解する必要がある。しかし、現代のソフトウェアでは正しく書くだけは不十分だ。共に正しく書く必要がある。Git のようなバージョン管理システムはコミュニケーションは伝統的なコードで語り合うというプログラマーのコミュニケーションに縛り付けている。必要なのはIssueに対して現在の作業をリアルタイムに状況確認、いつでも共同編集に参加できるプラットフォームである。今日は久しぶりに RMI チームと少し作業をする。瀧山も栞も暑さでやられているがまずまず元気そう。移籍した浦野さんも楽しそうですよと伝えておく。瀧山はお子が夏休みにはいって家の中で飛び回っているらしくちょっと神経がピリピリ。ああいうの見ると、結婚って大変だなあとおもう。でもみんないう。マイナスもあるけどプラスの方が多い。結婚しているヤツの強がりだと思っている。これは結婚していないヤツの妬みでもある。無限ループって怖い。

仕事あがりで日暮れのポタリング。頭が重い。風がぬるい。どうなっているのだ。もう日が落ちるというのに。伊花多ヶ浜まで行くともう、日が落ちる。薄闇。気持ちいい。ひぐらしの声を合図に、世界の理ががチェンジする。鳥たちが泣き止む。虫たちが鳴き始める。空気がゆっくり冷え始める。見えないものが動き始める。

部屋に戻り風呂にはいる。食欲がない。冷凍ごはんを温めて納豆とお豆腐でごはんを食べる。お豆腐おいしい。夜はエクリプスチームで Left 4 Dead 2。頭が仕事モードのまま。ポタリングしたのに頭が切り替わらない。うってうってうちまくるしかない。

二十三時でおわり。薬を飲んで寝る。

8月7日(土)

やはり身体が重い。今日はキモサベをお触りしたい。タンブルウィードに行きたい。彼に触れたい。気合いで起きる。

タンブルウィードでは乗馬レッスンのお姉様方が沢山おられる。自分はツインテールのかわいい女の子になったつもりでお姉様方についてまわる。文字通りポニーテールもあるし、ツインテールもあるし、乗馬の身なりでムチをもったお姉様方もおられるし、きゅんっとしてしまう。一番かわいいのはキモサベだけどね。オレはツインテールかわいい幼女のムツゴロウのような形でキモサベにヨシヨシ愛撫攻撃をする。キモサベは鬱陶しそうにしているが受け入れてくれる。視野が全方位ではあるけど、こっちみてるなあって気がつく。馬とも視線はあうし、馬が見ていたなというーφも感じることがある。人では異常なコンテキストが働いてーφを気づくには訓練が必要だ。でも馬とは言語がない分、より直感的に感じることができる。これがオレには良い治療、変化を起こしてくれる気がする。じっとみると見返してくれるキモサベは言葉が使えない。安心して自分の秘部を投射できる。キモサベはそれを受け入れる度量がある。唖が登場する小説が好き。巨人たちも唖のボゴ少年にはかなり惹かれた。
お姉様方と一緒にレッスン。お姉様方はマイ馬やマイ鞍とかで登場である。お嬢様学校かな。オレはキモサベと楽しく遊べればいいと思っていたけどこれでいいのだろうか。馬上でキモサベに聞いてみる。やっぱりああいうかっこいい鞍のほうがいい? そんなことよりお前の指示がよくわからんからきっちり合図してくれよ、とキモサベが返す。しゃべれるのか。幻聴かな。いや、ゴルゴ先生のアドバイスの主体がキモサベに転倒しただけでオレが混乱しているだけだった。お姉様方はしゅっと軽速歩しているが、オレはキモサベとのコミュニケーションに四苦八苦している。キモサベが速歩をやめてしまうのが課題。しっかり足並みにあわせてオレが立ち座りができること、お腹を圧迫して速歩継続の合図をキモサベに明確にすること。頭でわかっていても同時にいろいろやろうとしてなにも成果を生まない。乗馬は基本的にはマルチタスクなのだ。リーンをつかって上達するのは無理がある。
休憩する。オレはふりかえりをする。足並みにそろえた立ち座りは少しできるようになってきた。たち座りはキモサベに負担をかけないだけで、これはオプショナルの目標、本来はキモサベにしっかりとオレがどこを曲がるか、どこにどれだけの速度で進むかを指示してあげることが大事。そして馬上ではいろいろなことが同時に起こる。前走の馬がとまったり、虻がきて馬がリズムを乱したり、地面に少し脚を取られたり、些細なことだが馬上のオレにはとても大きなインパクトとしてつたわる。多種多様な不確実的な要素があって馬はそのなかの些細な要素にも大きく反応する。オレはその因果をすべて対処しようとしていたのがいけないのではないか。馬の揺れと戦っていた、馬の揺れに身を任せないといけない。
レッスン再開。進路指示や教科書的な乗馬姿勢を一旦忘れる。キモサベの身体と一緒になれる感覚を掴む。上半身、脚の使い方、肩の力が抜けてくる。完璧ではないが、全く新しい体感を得る。楽しい。キモサベは自由に走り回っているので、その状態で指示を出してやる。指示を出すとまた身体が自我を取り戻す。乗馬は瞑想に近いんだなと気づく。自我をもってはいない。レッスン終了。もうちょっとでなにか次のステージに行けそうだったがフィニッシュまではいけず。寸止めのくやしさ。
キモサベを愛撫してやるがおやつ食べたいぃという目。うーむ、レッスン前にニンジンをチラ見せしたのはよくなかったか。でもキモサベの呪術師然とした目はらんらんとしている。かわいいのでよしとしよう。キモサベの全身を洗ってあげる。キモサベと今日のレッスンの感想を話し合う。ハンガーフライトならぬ、厩舎乗馬的な。となりでゴルゴ先生は蹄鉄打ちである。なんというか、何をしても様になる。先生はオレがボスだからなっていうオーラでマウントして馬たちの蹄鉄を変えていく。別の馬が洗い場で足をならしてちゃんちゃんわがままをいうものなら、先生がかけていってわがままいってんじゃねえぞのお叱りである。鉄爪をぶん投げる。ぎゃー、なんという強硬手段。馬は人間の目に見えてわかるようにすぐにしゅんとなる。言語をもない馬のコミュニティにおいては力関係をはっきりさせるためにそのようなやり方は必要だろう。キモサベもお手入れするときに傷をみつけることがある。他の馬と遊びながらエスカレートして噛んだり噛まれたりするとのこと。でもそのようにして互いの力関係や自分たちのコミュニティの力関係を維持している。そしてそのコミュニティの究極的なトップがゴルゴ先生でなければこのコミュニティは存続していかない。その正しさを理解しながら、オレはオレの体験を投射してしまう。いじめられっ子に忖度したり、ほどほどに小突かれながら破綻しないように生きてきたり、意味もなく突然殴られたり、怒鳴られたりすることに恐怖に感じる。今起こったありのままのことは恐怖だが、それを恐怖にしないために、きっちり理解する。起こったことが合理的である分には恐怖は減る。いじめは不合理だ。そうだったろうか。オレがいじめられる側になり、時にはいじめる側になり、なんでオレがそんなことができたのか。

帰って風呂にはいる。この風呂には妖怪が沢山いる。でも今日は妖怪がいない。先客がお一人。あいさつをして全身の汗を流す。気持ちいい。ぼんやり社会的な動物のことを考える。いろんな考えはあるが、犬も社会的動物としてボスに従うことで安心した生活ができるという。飼い主がボスとなって信頼関係をつくることによって犬はストレス少なく暮らすことができる。オレのボスは誰なんだろう? あやがとつぜんオレをのぞき込んでくる。お前じゃないとデコピンで追い払う。ひぃとおでこをおさえるあや。非難するようにオレを睨む。生きやすさとはなんだろう。ボスがいることなのか。大きな物語こそがボスなのか。とすれば、自己を強力に相対化できる装置こそが生きやすさの装置なのか。徹底的な内省批判によって人は生きやすさを手に入れることは出来るのだろうか。直感的にしかわからないが、きっとそうではないだろう。生きやすさは自己完結しない。

薬を飲んで寝る。

8月6日(金)

少しお酒が残っている。制御出来る範囲で酒量は減らしたのでちょっとだけマシにはなっている。スヌーズとの戦争を三十分で終わらせる。朝のルーチンワークをすませると、一人になりたくて川沿いを散歩する。蝉の生存戦略をぼうっとかんがえる。オレはここにいると鳴くとメスがトライしてくれる仕組みだ。鳴くと外敵に見つかりやすくリスクは高いが、うまくいけば自分の子孫を残すことができる。鳴く声が大きければ大きいほど気づいてもらえる、メスにも外敵にも。自分に置き換えて考えてみるととんでもない博打だなあとおもう。人間みたくコソコソ交尾するほうに進化はできないものだろうか。ツイッターのDMで待ち合わせ場所きめればいいのに。リスクをおかして交尾してでも幼虫は土の中に何年もいる。個体を増やすのであればすぐに成虫になればいいものを土中で長いことを過ごす。なぜだろうか。外界が過酷な環境で長く生き残れない事態があったのではないか。土中なかで外界の環境が改善するのをまっている。まるで核戦争後のように。数年たっても外界の環境よくなってなければ、その環境下で素早く交尾して子孫をのこして次の数年後にかける。なるほど、一ヶ月しか寿命のない蝉の成虫はそれいう環境の長期変化に対応するための仕組みなのかもしれない。その思考実験でオレは満足する。ウィキペディアはみない。
散歩から帰ると軽く世界と同期する。大嫌いなツイッターもたまに流し見しておく。ほー、ヤマシタさんのアニメすげー人気になっている。やっぱりすごいなあ。自分も創作でたくさんフィードバックもらえる状態が夢だったので憧れと尊敬である。

仕事をやる。チーム作りのことばっかりをずっと考える。忙しすぎて浦野さんのフォローができない。チーム開発の実践はRMIチームでしかしていないので、ほかのスクラムチームのスクラムタイムボックスを見学を進める。違うチームのやり方の見学するのは有効だ。差異からの気づきは多い。午後もファシリテートばかりしている。やっと夕方になって時間がとれる。浦野さんの退勤まで一緒にペアでドキュメントワークする。前向きなのではっきりいって圧倒される。

仕事を上がるともう夜である。疲れてはいるが人としゃべり続けたせいか、いつもと疲れは違う。楽しさも感じられたので少し心がかるい。やはり若手女子浦野さんの前向きさだろう。他のチームと違ってインパクトのある機能開発がすくないとわかっていてもカイゼンにフォーカスしてそこを磨くということに楽しさを感じられるらしい。もちろんオレもそれが楽しいのだがそんなにノリノリな人も少ない。会社の課題でわれわれのチームのミッションになりそうなことに共感してもらえるのはうれしかった。
お酒を飲みながら執筆作業。オレにはもう執筆理由はあまりない。オレしかこの日記は、オレがもうよむことはないだろうな、と割り切った時点で書く動機はほとんどなくなった。エクリプスでシナリオを書くとすれば練習しておこうという前提もあったんだ。文字を書く練習にはなったが、やはりシナリオは別物な気がする。去人たちZEROの書き上がったシナリオはにちのさんもヤマシタさんもぽかんとしていたのが困っている。まーそうでしょうね、という感じだけれどもいっぽうで、オレはあれを作品にしてみたいんだけど、直し方がわからない。うーむ、日本語の勉強が必要かも知れない。頼れる自由人も知り合いもいないな。

薬を飲んで早めに寝る。