kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

11月某日

前日の夜から絶食、眠るために少しだけお酒を飲んだ。時間は六時半。いつもは出るのをしぶるふとんからもさっと起き上がる。ウツが甘えだと言われる仕草である。大腸内視鏡の検査なんて苦痛に決まっている。でもその苦痛と出口が入り口になっちゃうんであろうワクワクと、自分の身体を試す、測定することが大好きな好奇心とが入り交じった朝だ。朝起きてパソコンをつけてエロアニメを見る。異種姦触手モノである。俺も数時間後にはそうなるんだと思うとこれまでに見たことがないほどに陰茎が怒張し、ウェザータッチでちょっと触れただけなのに大量に射精してしまい、日焼けした畳みに白濁した液が飛びってしまう。今日はしごく真っ当な医学的検査なのに俺は何をやっているんだろう。ティッシュで畳を服ながらつぶやく。俺って最低だ。

自転車で名破市の病院まで向かう。腹ぺこで水分もあまりとっていないがらヘトヘトになる。病院につくと受付をすませて腸内洗浄液、3リッターのたっぷり下剤を飲む。これがなんと昼間までちぴちぴとやる。俺なら居酒屋に3時間いたら4リッターからのビールは干せる自信がある。仕組みは簡単だ。浸透圧的に吸収されない水分を時間をかけながらチビチビ経口摂取する。そうするな腸内にたまっているお通じが押し流されてじゃばじゃばでてくるという仕組みである。これを何度もくりかえし、出口からでてくる液体がほぼ透明になるまで繰り返す。また腸のうねうね折りまがった部分にはお通じが残りやすいので歩きながら振動させてみてね、などというわけである。まずい洗浄液、院内ウォーキング。
1時間ほどするがまだ便意はこず。2時間ほどするとぎゅるるるぅとくる。でちゃぅぅぅぅ。排出された弁はまっちゃっちゃ。これが透明になるまで出し続けるのか...
何度もくりかえすが、俺が排出する弁は泥かヘドロみたいに色がついている。人造人間、というかゴーレムなんやろうな、俺は。だって生きてる実感ないし、生まれてきたことに一切、全く、自信ないもんなあ。看護師さんが、 kow さんは便の色どうです? よくなりました? と聞かれるが、まだ泥水ですとこたえる。わかりました、じゃあ次出した後みせてください、いけるかどうか確認します。もう12時をまわっていて検査の時間がせまっているのでいけるかどうかを判断するらしい。あんまり人にうんこみられたことがないからなあ、なんか恥ずかしい。びちゃびちゃやし。立派な自慢できる極太のやつでもないしなあ。恥ずかしいなあ。でもそれがなぜか気持ちいいなあ。そういえば家畜人ヤプーを読んでいたときもキンモーとおもっていたけど合理的で抑制される気持ちよさにとても共感出来た気がする。
などどやっていると、差し込み。トイレにこもってほぼ水分を排出する。しゃーしゃしゃー。高圧洗浄機かよ。跳ね返りが怖い。うーむ、まだちょっと残ってるなあ。生まれて初めて病院のトイレにある呼出ボタンを押す。看護師さんがきてくれて排出内容から検査の可否を判断してくれる。はずかしい。
「いいですね、kow さん、これならいけますよ」
はあ、よかった。俺が幼いころ、うんこは贈り物だったのにな。いまはどうして恥ずかしいのだろう。もしかしたら、俺にはうんこを贈り物として受け取ってくれる親が存在しなかったのかもしれない。確かに、育ての親は俺のことを橋の下で拾ってきたと何度も明言していた。俺がうんこが嫌いな理由がいま分かった気がする。

腸内が洗浄されたあとは、鎮静剤を点滴で投与する。もちろん説明はない。なんとなく鎮静剤なのだと察する。ぼーっとするとかふらふらすとか、きっとそういうタイプの点滴である。だが、俺には効かない。効いているんだろうけど、ドキドキが半端ない。今朝見てしまったエロ動画の触手とそれらが出たり入ったりしているところをみていたせいだとおもう。そんなことされたら、性別関係なくやばいに決まっている。ふう、俺はここが公共の場であることを思い出し素数を数える。まさか勃起したままカメラを挿入されるわけにはいかない。
「先生、ごめんなさい、術着を汚してしまいました」
「いや、いいんだよ、いますぐにわたしが綺麗にしてあげるからね」
ぎゃー、ヘンタイだー。こんなことは絶対にあってはならないのです。素数です、素数を数えるのです。ふうふう。

さて、いよいよ本番です。俺は完全にビジネスモードです。おう、かまわぬ、やってくれたまえ。
「はーい、じゃあ、ゼリー塗りますね-」
年配の看護師さんが手袋をはめてジェルをつける。そして俺のアナルにガツンとくる一発を見舞う。嘘だろ、もうちょっと優しくしてくれるとおもったのに。俺の……俺のバージンが……しくしく。いや、そこまで期待はしてなかったけど、挿入速度がマジではやいねん。もうちょっとゆっくりでもいいと思うんだ。個人的にはそういう乱暴な扱い好きなんだけれども。

そしていよいよ、超長い触手が侵入してきます。しかも、わざわざ、Live で画面を見せる仕組みです。俺の腸内を犯しながらその画像を俺にもリアルタイムで共有するというものでとても親切である。もはや、そういうプレイだ。俺は直腸部分が弱点なので挿入直後の呻く。せ、先生、や、優しくして。先生は関係ありません。これは医療行為です。
腸はつづら折りになっていてその中を内視鏡が進んでいきます。やり方はかんたん、無理矢理押し込んでうねうねと奥に進んでいくのです。コーナーを曲がる度にみぞおちにボディブローを食らったような重い感覚を伴います。俺はアガーアガーとわめきますが、先生はそのうち気持ちよくなるさみたいな感じで意にも介しません。目からは涙が、鼻から鼻水、口からはヨダレ、内視鏡の映像は涙で歪んで何もみえません。うーん綺麗なもんですねえ、などと先生はいいますが、俺は陵辱されて苦痛のどん底なのです。

検査がおります。結果をきちんと聞きたかったのですが、腸の違和感でうまくきけません。逆に言うとポリープもなかったようだし気になる所見もなかったのかなと勝手に想像しました。あと、痔は結局あったの、なかったの?
「はい、kow さん、この車椅子にのっていくださいね。すこしベッドで休憩しましょう」
おい、人生初車椅子がここなのか。だから鎮静剤あんま効いてる気がしないんですが。意識レベルと身体レベルは別やろうし、ここは専門家のいうことを聞いておこう。
車椅子で仮眠ベッドまで運ばれる感じ、すごく嫌だけど、考え方をかえれば疾病利得のもっとも気持ち胃行為でもある。はあ、俺はなんでも利害関係で考えるようになってしまった。死にたい。
ベッドに横になる。看護師さんが毛布を掛けてくれる。

知らない天井を見つめながら思う。医療の現場はカンバンである。ただカンバンというプロセスとアジャイルというプロセスの併存が現場のモチベーションを支えている。適切な医療処置と寄り添いがセットになって価値を届けられるサービスとなっている。(これがいいかどうかはおいておくとして)利用崩壊とはこの原則を実現できなくなることだろう。理を捨て実を取る医療になったとき、それは誇りのある仕事ではないと、それまで誇りをもって仕事をしてきた医療従事者は思うんだろうなとおもった。


俺は腹ぺこのまま家にかえる。絶食しているから優しい食事でもたべようか。
酒はうまい。肉もうまい。米もうまい。これは俺の勝手な世界だ。クスリを飲んで寝る。

11月17日(火)

日記を放置していた間にいろいろな事はあったが、人生を総括したときには些細なことにちがない。今日は病院巡りのために一日、会社に休みをもらった。半休でもよかったのかもしれないが、病院にいくだけで俺のメンタルがボロボロになるのは想像に難くない。

名破市の病院まで自転車で40分。朝の空気は冷たく、山間の空気はきんっと張り詰めている。もうちょっとペダルをまわして体温をあげていこうと思うが、このコントロールがうまくいかない。すぐにじゃばじゃば汗がでてきて、身体が温まるまえに汗冷えが始まる。自律神経がぶっ壊れている。低速巡航で進む。指先がかじかむ。ツール・ド・フランスでは標高2000メートルまで登って気温は1度ぐらいだった。過酷すぎる。

病院につくと受付をすませる。体調がわるい。自分本位になっている。いまになっておもうと、一番オレがダメ人間なときだった。オレはぶっきらぼうに、名前を告げて、予約してると告げる。受付の女の子は名前からカルテを検索してくれたようだ。オレは、再検査の予約をしています、の言葉がいえなかったこを後悔する。他者の居る世界に足を踏み入れていない。分別がない。

病院の待合はコロナ対策でソーシャルディスタンシングを行っている。ご年配の方が多く、足腰が不自由な方が多い。診察の順番になると白髪の豪胆な内科医。いなかのおっちゃんってこうだよね、というグイグイでフラットな話しぶり。14歳ならまあ精密検査しなくてもいいきがするけど、まあ、一度やっておくといいよ。うむ、オレもそのつもりだ。いろいろめんどくさいんだけど、検査について後から看護師から説明きいて。おれは頷く。内科医もコンプライアンス的に説明しないといけいない事項を淡々と伝えているだけ。こまごまと書面に書かれたことにオレは興味がない。まれにおこる問題、1%未満、当院ではおこったことがありません、安心してください、という謎の説明。次はオレにおこらない理由などなにもないのだから安心などできない。確率とその事象が発生してしまうということの間には生の真実が垣間見える。
結局、俺は大腸内視鏡の検査を受けることになった。大量の下血まではしていないので進行したガンではないだろう。アナルに振動するピンクの医療器具をを挿入して強にして楽しんでいたのがきっと悪かったのだとおもう。

家に帰る。冷えた身体を温めるために温泉に浸かる。仮にガンだとして、俺はうまく死ぬことができるのだろうか。「死にたい」「消えたい」「記憶喪失になりたい」「人に迷惑をかけたくない」
嫌になる。気分は重い。早々にクスリを飲んでねる。

11月8日(日)

曇り、気温は低い。去人たちZEROの続きを創ろうという話になって以降、俺は死にたくて死にたくてしょうがない。あまり深刻になることはない。「死にたい」というのは俺にとっては「ギリギリまで腹が減った」ということと大差ない。即時に死ぬ行動をとることでもなく、むしろ具体的な「死」については想像もできてない。本当に追い詰められた人間は「自死」に制約はない。痛くない、辛くない死に方を考えているイチはまだ健全である。本当に死ぬことを考えた人は、ただもっとも身近で確率性の死を選ぶ。飛び込み、飛び降り、首つりだ。手首を切って湯船に作るが悪いわけじゃない。それは医学的な致死性の理解不足なだけだ。

ゆくえさんにもラーメン大好き河合さんにも申し訳ないことをしたような気がしている。たぶん勘違いだ。勘違いだから、わすれていい、と思える自分ならおれは今はいまここにいないだろう。お二人の発言や要望は理にかなっている。無茶もない。理屈も通っている。理屈や矛盾の塊の俺は激しくプレッシャーを感じる。これは @lice と作品を作っていたときとは大きくことなる。オレたちはただのモラトリアムの中で反抗しようとしたいた。エロゲーがただ、ポルノ的すぎたから、という言い訳は一番楽かもしれない。@lice とともにエロいコンテンツを共有しながらどのぐらいで射精に到達できるかを比較したほどだ。一方で、この快楽の効率性を競う競技は私たちに文学とはなにか? という小さな課題を与えてくれた。賢者が読むテキストというものがあって、それは賢者だろうが、賢者足るまいがよめるべきではないか、という発想であった。結局その発想は正しくないと思い至り、賢者なり得る我々が、それ以前に読めるテキストがあるのではないか、という定義に変わる。人間の性的嗜好こそ、人間性の根源であるという認め方は結構面白かった。

でもそういった妄想じみた発想は無責任だから自由に発想できた。 @lice と俺は友達だったのだろうかとすら思う。極論、@lice が死んでも「そうか、死んでしまったか」としか思わなかっただろうし、@lice だって俺が死んだところでその事実以上にないも感じなかっただろう。アナーキスト? リバタリアン? 自暴自棄? ただの破局型の気質? ただ12歳だった俺は閉塞感漂う世界で最も自由な時間を @lice と過ごすことができた。そこはグロテスクではあったが息はできたし何か許された気さえした。

開放された世界で去人たちの作り方を俺はまだ知らない。

10月25日(土)

精神状況は良くなったり悪くなったりする。お酒をやめ、ポジティブに仕事し、自転車にのり、乗馬をする。世界がきらきらしてくる。空気は肺に取り込んでも肺が爛れることはない。太陽を見上げても網膜細胞はダメージを受けない。

仕事のパフォーマンスが最悪。躁と鬱の狭間で「一貫性のあるコミュニケーション」ができなくなっている。定常業務を含むチームで働くならかなり重要な観点だ。成功に対してはいつだって一定の「やるじゃない」が必要だ。軽微な失敗についてはいつだって同じテンションで「ナイストライ」といわなければらない。あるときは激怒して、あるときは励ますというのは一貫性のないコミュニケーションだ。今のオレは他者への関心がゼロだ。成功しようがしまいが、「へえ」としかいえない。これは最後のコミュニケーションだ。消極的コミュニケーションの拒絶。オレはオレの世界だけに生きている。仕事のコンテキストもない。ただオレの世界。荒廃し、死ぬか死ぬまいか、死んではダメだという判断が常に繰り返される世界。「生きていて意味があるか」という自分からの問いに「生にもともと意味なんかねえよ」と反論するだけのシンプルな世界。「身体が失われ、その上で運用されていた自我も消え失せる。kow@suhit のライフサイクルが終わったときその痕跡しかない。それもごく僅かで、数年を持たずに埋もれ失われていくあろう。ドメインの消失、言及量の低下、ソーシャル価値の低下。それは今死んでもほとんど変わらないだろう。あなたは生きていても何もしないから。生きていて何かしても変わらないだろうけど。あなたはすべてをやったんだろうから」
かなり強烈で極論の言葉が差し向けられてくる。オレは自分の子どもを設けることにしようではないか。はっきりいって、その手の非論理的暴論には飽き飽きしている。残りの人生は自分の子をもうけることだけに捧げることにする。18歳になったころに目標に参画していただける女性をパートナーにして子をもうける。去人たちの続きをつくるという生きる目的を勝手に与えられたお子だ。どうせオレが早く死んでしまうだろうから、お前が続きを書いてくれ。どんなものでもいい。一貫性も不要だ。物語を作らねならないという一貫性のなかで世代をまたぐのだ。
仕事のシデムシ隊は順調だ。悪くない。ただ、オレが悪さをするからメンバーが成長しない。いつも笑っている。まあいいや、ケケケケ。チームは相変わらずノイズが許されるプロジェクトに従事している。だから狂った会社のなかで、正しいやり方を挑戦する余地を与えてもらっている。この会社に不足しているとおもうので挑戦してもらいたいです、というとうなずいてもらえる。はっきりいって当社は余裕がある。一方で制約とのバランスには無頓着だ。殿様商売とはいわないが、失敗、チャレンジ、投資が下手クソではある。オレはオレのエンジニアとしての成長のために会社の余剰資金を使ってチームに投資する。チームメンバーがついてくるかどうかはわからない。でもついてこれる幅でやろうと計画する。
当社においてはポートフォリオマネジメント、プログラムマネジメントがない。あるようでない。あったとしても機能していない。機能してない機能をなんていうか? 機能策定したプロジェクトは失敗であった。どうも当社はアーティスト揃いだ。オレたちの最強の彫像ができた。評価はどうあれ、オレたちにとっては最強だ。プロジェクトは完了する。プロジェクトはお前たちのオナニー、オーガズムのためにあるんじゃない。
当社は目的に到達するための標準的方法論がない。スタートアップの弱小企業ならまだしも、会員数もそこそこして売上規模も上がっているのだ。採用も積極的なのだから、組織がもっている「標準」はもっと増えるべきだ。

体調があまりも悪い。エクリプスのメンバーにも伝えた。もうオレはダメだ。行方さんやラーメン大好き河合さんは考慮するとはいってくれた。ここまで悪化するとエクリプスは重荷になってしまった。仕事はもっと重荷である。生きていることがもっともの重荷だ。去人たちも重荷である。もっともの重荷といってもいい、去人たちは。作り得るものを作らないでいるといつも責め立てられている。それを意識しながらエクリプスを作っているのはかなりきつい心理的状況だ。べつにオレだって言い訳はある。去人たちの続編はオレだけではつくれない。誰かが必要だ。@lice はいない。@lice のかわりの誰かをオレはわかっているのか? わかっていない。協働をしならければならない。そういう意味においてエクリプスは大事なP`Jだ。やりきりたい。やりきりたいけど、死んでしまえはあーだ、こーだ、うーだ、ぢゅーだ、なにもかもがなくなる、死ねば良い。死ぬのが楽だ、という考えからは遠ざかろうとしている。

よくある物語だが、生まれてくる前に父が死んでしまった、という状況、憧れる。
そんな、素敵な無責任な状態で死んでしまいたい。
クスリを飲んで寝る。

10月01日(木)

今日は少し雨が降っている。キモサベに会いたい。会いたくて会いたくて震える。午前休をとる。もはや、オレは病欠の常習犯だ。

キモサベとは雰囲気すこし仲良くなれてきた。もう三十時間ぐらいは一緒にいるのだろうか。しかも濃厚接触で。間主観性というなかでオレはキモサベと言葉を介さずに通じ合えるようになった。最初はとまどったが、いまではお互いの間合いを心得て引くところは引くし、じゃれても良い部分はじゃれてみる。お馬の社会は縦社会で、馬たちは遊びの延長で互いに力試しをして順列がきまるそうだ。オレは財力でおやつをちらつかせながらキモサベのマウントを取ろうとしている。犬を飼っていたときと同じ手法ではないか、これでいいのだろうか。キモサベと朝のピロートークをする。オレはご遺体に話しかけるのがとても苦手だ。喪の作業がまったくできない。病死した親族にみんなが、「つらかったねえ、ゆっくりやすんでねえ」と冷たく固い身体をさするのをみて恐怖を感じる。老女が幼女人形をベビーカーで押している状況に見える。そこにはある意味においての「死の手応え」がある。オレにとっては生と死はシームレスで可逆のようにすら実感する。論理的にはそんなことはない。オレが生まれてくる以前、何にも感じなかったように、死んでも何も感じなくだけだ。すでに死の状況を経験しているといっていい。その閾を越えるときだけが生の目的だ。その瞬間が終われば虚無だ。その瞬間さえ乗り越えれば、あとは何も気にしなくて良い。キモサベ、オレはお前より長く生きられるような気がしない、いやいや、むしろオレよりは長生きしてくれ、お前は男の娘の中の男の娘、かっこかわいいし、お肉もしまってお尻のお肉はスーパーかっこいい。あと、オレをじっとみながら値踏みしてるのもいいよ。ずっとオレを気にさせてるその流し目、やるじゃないの。ごしごしとブラッシングして顔を拭いてあげて裏堀する。馬装していざレッスン。今日は他の生徒さんもこられていて一緒にレッスン。乗馬のユニフォームがびしっときまっている。オレはサイクリング用のジャージとタイツ。見た目から入る必要はない、ない! 常歩を多めのレッスン。だけど、これが復習と新しい課題発見につながる。基本だからこそ奥が深い。あぶみへの足の力のかけ方、目線、手綱のはり、手の位置、腰と馬の一体感、上半身の安定感、秋の空、秋の風、キモサベから伝わってくる体温とキモサベがいま楽しめているかなという心配。キモサベに尽くすというストーカー癖がではじめている。キモサベの足並み、頚の上下、後ろ足のテンポの遅れ。キモサベと一緒になりたい。胸がキュンキュンする。一方、速歩になると今度は自分の課題で精一杯、キモサベのことを考える余裕がない。立ち座りは目的ではない、タチ座りをすることお馬と人がお互いに楽に、なるための動きでしかない。その状態できちんとお馬に指示をだし馬もその指示を理解して気持ちよく走れることが目的なのだ、とゴルゴ先生はいう。カーマ・スートラなみに奥の深い教えがゴルゴ先生からでてくる。オレはキモサベが好きすぎて必死になってやろうとする。手の位置の固定、手綱のテンションの安定化、足首の力をぬいて太もも、ふくらはぎの力で立つ。そのときに上半身はリラックスして反動に呼応して力をいれずに立つ。自分の事が出来たら、今度は手綱で自分の行きたい進路を先々にキモサベに指示する。直線、コーナーのテンポはことなる。コースをみるだけではなく、馬の頚、上手のテンポをみて一緒に進む。脳が爆発する。キモサベ、ごめんよごめんよごめんよ、まずは自分のことだけ、自分が気も良くなるだけだけど。コース取りやテンポがあわず反動をうけるが、自分自身の形はよくなってくる。力がぬけて軽速歩をずっと続けていても疲れない。よし、きた。キモサベがテンションあがってきて、どんどんスピードアップしていく。「乗っている人のテンポにあわせて馬があわせにいっている、ただ合わせるだけじゃなくて自分の思うテンポで」とのゴルゴ先生の指示。おー、オレが軽速歩に乗れるようになってキモサベに合わせていたら、キモサベにとってはもっと、もっと!という合図に感じられたらしい。タイミングを遅らせる、反動がつよくなる。ゆっくりでええんやでと声をかけるがお馬にはわからない。「薬指でかるく手綱を引いて。とまらない程度に」とゴルゴ先生の指示。お馬さんの手綱操作がまあ、敏感。PS2のコントローラーだったらスティックをちょろっと倒しただけなのにぐいぐい曲がっていく。ほんとうにチョット。スピードダウンだとおもってちょっと引いてみるとキモサベは急停止する。ふぁー、あかんあかん落ちる落ちる。キモサベはぶるるんといなないて、人使いがあらいなあ、ぐらいな印象。いやいや、それは馬使いやで、とオレがツッコみをいれる。「とまってないで、どんどん再開して」とゴルゴ先生から檄が飛ぶ。
レッスンが終わってキモサベの身体を拭いてやる。良い感じにほてって素敵である。先生にみられないように一人でぎゅーっと胴体にしがみつく。しあわせ。キモサベが、なにやってんだよ、キモいんだよ、はなれろよ、とか暴れないのがいい。

午後からは仕事。今日もファシリテーター。チーム発足からもう数ヶ月。シデムシ隊もシデムシ隊を自身して成長していきたい。チームビルディングのために、スキルマップをやる。インセプションデッキに従って必要チームのスキル、知識をあきらかにするものだ。チームの求めるスキルというのはインセプションデッキがなければ決められない。これがミソである。オレたちはOOPを究極までに理解しないとミッションが遂行できないわけではない、マルチスレッドプログラミングを知らなくてもミッションを遂行できるんだ。中期的にはここのスキルが必要なんだ、この業務知識が必要である、販売のチャネル、離脱率、アクティブユーザー数、テーブル定義……オレたちはどこまで知っていないと行けないのか、を知る大事なフェーズだ。時間はかかったが実りのある時間だった。
次は臨時の障害対応のふりかえりミーティング。主催者はエンジニアマネージャー。開幕早々、どうして今日午前中休んだんですか? 最近休み多いですけど、体調大丈夫ですか? 病院はいっているんですか? 先生はなんていってるんですか? 結局回復する見込みはあるのですか? と矢継ぎ早に質問される。マネージャーとしての質問は正しい。でも健康状態は個人情報なので別の場所でやってほしい。そしてなんとなく、質問の仕方がオレをコントロールしようとしている気配がある。メンタリングではなく、マネージメントしようとする言葉の強さだ。オレは笑いながら答える。結局様子見なんですよねー、と。セカンドオピニオンも考えた方がいいんじゃないですか? というマネージャーのツッコミ。なんだろう、親切心という押しつけに聞こえるんだけど、オレが悪意をもって感じ取りすぎだろうか。もちろん、指摘はあっていると思う。本気で心配してくれているのだろう、でも希望が持てないオレが悪いんだ。今日のミーティングには瀧山もいる。なんか、やばそうな三人が集まったな。ファシリテーターがいないのでまず混乱する。瀧山がこのミーティングについてなんでもかんでもまくしたてる。聞き手側のレスポンスを待たないので、こちらはついて行くのに必死だし、質問したいことを頭のなかで記憶しておくしかない。しかもこのミーティングのアジェンダに対しての解決案が瀧山のなかにはあってそれがいいたくてむずむずしている。むしろオレがこのミーティングの背景をインプットせずにきたことにいらついてすら見える。それについて主催者の笹野マネージャーは何もいわない。状況の背景をしっている瀧山とその修正の責任を実現する責任をもつ笹野マネージャと、それを修正すべきシデムシ隊のオレとという関係性だった。一言でいってしまえば、これは共有ミーティングであり、議論したいとは誰も思ってない、思っていたのはオレだけだったと気づかされる。実質やることとやり方は決まっていて、それをお前がやるんやで、という共有の会だった。オレはニコニコとしながら引き受ける。気に食わないことはない。実際、そのとおりに修正するのが妥当だと思う。マネージャーと瀧山と溝が広がったほうが気になる。議論する余地がないなら、ミーティングである必要はなかった。オレがわーわーと騒いで理由を明確に述べられないことはしないなどと、喚き散らしているから気を遣ったのかもしれない。オレは社内で腫れ物扱いか。ダイカンゲイ。

仕事が終わると、風呂に入る。今日は疲れた。何も考えたくない。風呂で座禅を組む。心臓の鼓動、汗がしたり水面にしたたる音、嫌いな上司、嫌いな同僚、つまらない仕事、つまらない人生、つまらない自分、全ての原因が自分にある、でもそんなわけない、呼吸、鼓動、呼吸、水面の揺らぎ、オレはつまらない、世界はつまらなくない、何も考えられない、何も考えない。

風呂上がりに扇風機を身体をクールダウン。白ワインとウイスキーでリラックスする。生きている実感をするのは唯一このときだけだ。お酒を飲んでいるときだけが生きていると実感できる。オレがいて世界があってその間に全てがある。よかった、ほんとうに良かった。
お酒をのんでふと思い出す。今日の夢はRPGゲーム的に壮大な夢だった。オレが主人公で世界を救うことになっているようだが実力はない。みんなが助けてくれる。一人の熟練魔法使いが仲間になってくれる。オレは成長し逃げ癖を封印して成長していく。もちろんその仲間は最後までいない。戦死する。なんというご都合主義的な夢なんだろう。つまりオレはそういう世界だけしか受容する能力がない。

クスリをのんで寝る。