kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

07月16日(土)

毎日まいにち、お茶碗すり切り一杯ほどのお薬を飲んでいると、自分の多少の問題を微調整する薬物的調整とは思えなくなってくる。
お薬がオレの振る舞いを決定する実体のような気がしてくる。
頭の中では理屈はわかっている。ある点での障害によってシステム全体の機能が低下している。だからその障害点を改善してやることで全体は自律的機能を快復していくだろう。

閉じて越境しない自律的システムとしての自己は目的がない。

他者に問いかけられ、働きかけられる自身と、他者に問いかけ、働きかける自身が同時並列に行われる状況が嫌いだった。解決したい問題は解決しようと思案している内に別の状況へと移行する。状況を固定してじっくり考え対処したいと思う。今の問題の背景は〇〇であり、真因は〇〇だと確信できる、だから自分は〇〇という対策アクションを実行する。線分AB上を等速移動する点Pは問題を単純化していると気づいたとき、もう14歳ですらなかった。15歳になると、線分AB上を等速移動する点Pは、どこにも存在しないが、誰かが、自分がそれを点Pと設定してよい、ということに気づく。だから、点Pには興味がなくなった気がする。

だからなんだっていう話だけれど、「線分AB上を等速移動する点P」を否定し続けても疲れるという話かなとおもう。
「線分AB上を等速移動する点P」なんて知らなければよかったと嘆いていてもどうしようもないし。

07月15日(金)

ふりかえってみると、個人的な時間配分はわかりやすかった。一日の三分の一は布団の上にいる。仕事も三分の一。酒を飲んでいる時間も三分の一。どれに金をかけるべきか?
睡眠、休息の質があがればそれ以外の活動の質が上昇する。いわゆる基板となるものであり、これが副次的に効果をもたらすのでここに投資する効果はかなり高いと想像できる。
なぜ仕事をするか、というコンテキストにおいて仕事から得られる価値は語れない。勤労は義務といわれても、じっさいピンとこない。死にたくないから生きている、ぐらいのレベルであってほしいのだけれど。このレベルの議論を放棄すれば、生きるための金銭を得るために労働力を切り売りしているっていう話で良いのかもしれない。生きている時間内の質を上げるために資金が必要になることもある。
酒を飲む時間は実質でいうと一日の三分の一は実現できていないのかもしれない。でも、理想的にはその程度が望ましいと個人的には考えている。

何のために睡眠が必要なのか。何のために仕事に従事する必要があるのか。何のためにお酒を飲む必要があるのか。

世の中には気が狂っていない正常なたくさんの人がいて気が狂っている人を受け入れて共存しようとしてくれている。
ただ、その反転した世界を、たくさんの正常な人にも想像してもらえたらいいなと思った。たぶん、想像してくれている人もいる。

07月13日(水)

前日は深酒をしたために、起き上がれない。
社会性を破綻させていいなら、体調不良でお休みにすればよい。
しかし、個人的な事情としてそのソリューションは早々に破綻しそう。
明日も、明後日も、来年も、再来年も「体調不良」でお休みできる実績づくりになってしまう。一度ついた嘘は二度三度とついてしまうことに抵抗感が薄れる。

這いつくばっても起き上がり仕事をする。
生活を破綻させると知っていながらお酒を飲むって、ダメな人間だからっていう。
二日酔いになってべろんべろんになって、何を得ているのか。

07月12日(火)

寝付きが悪くて睡眠不足。
仕方なく早朝から仕事をする。

布団から起き上がれないときには、寝起き一杯のコーヒーを頭の中で想像する。香りと自分がマゾヒストだと実感できる苦みのある液体。オレのかくプログラムの半分はコーヒーでできている。
誰かの書いた枯れたコードに変更を加えるために、テストコードをかく。依存が多すぎるクラス、ユースケースからは必然性を感じないクラスへの依存。新規にテストコードをかくのは発見に満ちあふれている。コーヒーをがぶのみしているカフェインジャンキーは動くプロダクションコードを書くことに執着して保守性を忘れてしまう。保守性を考慮しないわけじゃない、忘れようとし忘れたいがために集中といういいわけをする。すぐに動くコードができあがったことに発注者は賞賛する。卓越した職人であるから工数が短いという妄想を棄ててほしい。個人的な経験ではあからさまな保守性に欠陥がある。

物事は変化し続ける。変らないものにチャンスはない。設計と呼ばれるものもある瞬間には正しいけど、すぐに正しさは損なわれていく。アップデートし続けることが価値を生み出す根源的土台となる。どんなに潜在的ポテンシャルをもっている企画でも、アップデートしつづけることができなければ、短命に終わる。
アジャイルには観念がない。

仕事には身が入らなかった。粛々とタスクをこなしてはやめに退勤する。
1時間ばかりの SST インドアサイクリング。脳内の思考を殺してキャッシュをクリアする。すべてが過去になる。

風呂に入ってキンキンに冷えたビールを飲む。今日が報われる。
オレは文章を書く練習をして本当にまた何かを書けるようになるだろうか。
エクリチュールの意味もわすれた。シニフィエシニフィアンもよくわからない。
機械的にコアダンプを吐き出すだけで、それはそれとして意味があるようにおもうし、技術についても興味が持てない。

他者や、相対化に疲れて、一旦休むときにそういう地点があるよね、と思っている。
うまくやる方法は何かあるのかもしれないが、それもいいかと受け入れて頑張らないようにする。
お酒がおいしい。

07月11日(月)

朝は雨が降っていた。
思考を殺す。なにも考えない、なにも考えない。

なにも考えなくても仕事はでき、なにも考えずに仕事を終える。
オレは誰かの期待を先読みしてその期待に勝手に応える機械ではない。なにも察しない、やりたいなと思ったことがあればやればいい。指示があったことについてはそつなくこなせばいい。
状況が整っていない。自我は棄ててしまう。自我が芽生えていい状況だと判断すれば、そのときこそきっちりと小さく動く必要がある。いまはじっとしていればよい。

早退する。雨はあがっている。
なにも考えない、というのはストレスがたまる。イライラしている。何も考えないと、脳内は言葉にならないもやもやがぐるぐるして、気が狂いそうになる。言葉にならないので喜怒哀楽のどれともいえない。なんともいえず、ずっとなにものかにせっつかれている感じ。相手が見えないのにけんかを売られているのかっていう。

退勤してクライム多めのサイクリングにでかける。
毎日毎日、負荷をかけているせいで脚はヘトヘト感。心拍数が160以上になると、心的ストレスが減少していく傾向がある。心拍が160を超えてくるあたりから苦しさが強くなる。心拍のつらさ、脚が言うことをきかなくなる。180付近で限界。限界をこえて190までいくと意識がとびかける。
ダンシングの練習。呼吸が乱れる。ペダリングが乱れる。腕とペダリングのリズムがくずれる。呼吸を優先しようとするとさらにリズムがくずれる。結局、がむしゃらになってのぼる。
高強度の有酸素運動が増えた。運動能力をもっとあげるにはさらに負荷をかけないといけない。このまま、FTP 250 w めざすのもいいかもしれない。

家にかえって風呂にはいる。ハイボールと焼き鳥。
ウツのフェーズにはいると、本当にひどい。自分の状況についていえば、ネットをうばって座敷牢に閉じ込めておけばいいとすら思う。激しい劣等感や自罰感情が日常的に優位になる。
理屈、理性、抑圧から逃れるための苦肉の策。理屈によって自分を超無力化して、結果理屈から解放されようという虚しい試み。当然その試みは挫折する。挫折しつづけるなかで、全世界を敵に回すことになる。そして全世界が敵であってほしいと願ようになるのが正しいかもしれないが。わざわざ敵を作りにいく、という駆け引きをするが当然、失敗する。それが駆け引きだと思っているのは当人だけであり、他者はその文脈を理解できない。これは無限に相対化できる話かもしれない。
結果、ウツのフェーズが終わりかけにおいてイチかバチかの賭に出てしまうパターンが多い。
自意識が世界を構成しているみたいな、他者との依存方向を一方化する考え方は思考システムの安全弁がないために極端に稼働するか、あっというまに破綻すると思う。
ある境界を越えると、破綻するかも、と知っていながら、その言葉にできない破綻に魅入られてそれを止めようと思う判断も停止する。
最後の最期に、誰も選んでいない破綻に自分が立ち会えるという魅力に抗うのは本当に難しい。

オレは野放しになっているけど、イチかバチかなんて馬鹿げたことを考えないでいてほしい。