kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

07月22日(金)

生きている中で転機というものなどないんだなと思う。
後から思い起こして、後付けで転換点といえるだけ。時間があるから転換点がある。当然のことだけど、時間がなければ転換点もないというありきたりなお話。

個人的な意識として連続性をほとんど感じない。
これは自分の意見だ、といいながら、次の日には別の意見を言っている。少数派意見だとして日和ったとかではない。昨日の自分がいったことは、なんとはなしに分かっていて、それでも今はこの意見だと、無心で発言する。自分みたいな他者がいたら関わりたいと思うだろうか? 仕事で昨日はAだったものが今日はBだといわれたら、あまり関わりたくない。関わるとしても説明できる人に限る。昨日の自分と今日の自分はなにかが絶対的に乖離しているという、どうかした観念で生きている自分でも、他人にそれを許容できる幅は大きくないんだろう。

ちょっと自分は時間と意識に対し平均的な認識とズレているんだと思う。
差分の連なりの結果だと思えれば、自己認識を疑わないのだろうけど。ただ、「いま」がある、「いま」しかない、という説明でも足りない。前後関係がないから、「いま」もないようなすごく不安定な時間性。

何かを変えたい、と思うとき、イチかバチかの賭けに出たがる。
経験を自分のものにできないので、いま成果がでるか、でないか、しか考えられなくなる。これを失敗したらぜんぶ終わりにしよう、とかいつも思っている。そういった思い切った行動がうまくいくわけもない。そしてそういうことをやっている人に関わろうとする人もいなくなる。周りからしたら、社会性ゼロであり、どんな期待もかけられない相手になってしまう。
自分のそういった特性に気づけば表面を取り繕うことはできるようになる。自分が直感的に思ったこと、考えたことが他者への配慮は往々にして欠けているはずなので点検してから発言すればなんとかなる。めんどくさいなら誰かが言っていた意見を引用して、自分の意見を言わないのも楽である。とはいっても、疲れていたり、感情的に高ぶっていると本性がでてしまう。他者と彼らが存在しているコミュニケーションから安全な距離をとりましょう。自分は頭を冷やさないと、トラブルを起こしてしまいがち、それを深く心に刻んでおけばそうそう破綻しない。

もっと根本から状態を改善したいなと思うときには、時間性を取り戻すために他者にサポートしてもらうこともできると思う。
人に限らずものでもよいのだろうと思う。鏡になってくれるモノ、コトに客観的時間性を持たせることで、相対的に自分に時間性を取り戻せる可能性を感じている。

こんな妄想じみた仮説を根拠に、いま特には困っていないけど、一時的でもいいから時間性を取り戻して、少しだけやってみたいことがある。
イチかバチでもいいし、それが一番楽しいのだけれども、あれは身体が持たない。

07月18日(月)

日本語は妄想しやすいのかなと思う。主体がなくても話が進められる。レトリックだけじゃなくて。
まず出来事があるが、誰、いつ、どこでは虫食いになっている。それらが虫食いになっていても、リアリティを感じられる言語な気がする。まず現実があり曖昧さを事後に補完する。

これの曖昧さは欠点ではある。極端なはなし、AさんとBさんの違いすら曖昧になるのだから。Aさんが次の日にはBさんに見えてしまうとしたら現実世界では支障をしたしてしまう。自分の認識はおいていて、「あなたは誰?」といわないといけない。でも、日本語を使っているとなんとなくそんな世界は想像しやすい。異常か異常ではないかではなく、想像しやすい、というお話。

現実には触れることはできないとかどうとか。感覚器官の限界と、思考の限界があり、その限界が世界を認識する限界だとするしかないのだろう。物理的な限界はある。思考には限界はまだみえない。過剰なまでの内省、異常なまでの発散。繰り返していれば、当事者じゃない誰かがトレンドを作るだろう。

昼寝をして起きる。日は傾いている。
イカを炙る。強めのハイボールで一日を終わらせる。

夕日を見ると明日があるのだと気づく。
もう明日は要らないと思えた過去があったような気がする。明日や明後日がゆっくりとオレの首を締め上げる。それに意味も無い。

意味があるか、ないか、それすら分からない。
価値があるのか、ないのかなど、なおさらのこと。
同人という文化はそこにフィットしていたんだとおもう。マニアックだけど、一部の人が賛同して協賛してくれるような仕組み。
そういった活動すら縛りはきつくなっていく。あらゆるものは「公共」になっていく。

大きな物語で閉塞していたから、いま、ここにいることを不本意だとしても理解できる。
どのような物語もなく閉塞し続けているなら、いま、ここにいることをどのように受任するのがよいとされているのだろうか。

07月17日(日)

暑くなってきたのに、海に行っていない。
濡れるのが嫌いなので、あまり水物のアクティビティはしないのだけれど、たまにやるぶんには非日常感があってよい。
いつか泳ごうと度付きのゴーグルも準備していたし、せっかくなので泳ぎにいく。

自転車の後輪がスローパンクしていたのだけど、いよいよ走行不能である。
グラベルロードでもグラベル側に寄せた設定ではあるが、刻一刻と路面状況は変化する。ダウンヒルでは高速でガレた路面になったり、障害物に遭遇する。降雨後の路面には真新しい尖った礫が転がっている。
ホイール交換してから初めてのチューブ交換。ビードがリムと一体化していて、これビードがちがちのパターン? とおもったけど経年の密着ではがせば楽々系だった。せっかくなので、650B のエアボリュームでインフレータが足りるのか試しておく。結論としては、応急処置には十分。ただし圧がたりない。小型携帯ポンプとインフレータの両方を持っていた方がよさそう。
せっかくなのでホイールも拭いてきれいにする。グラベルを乗っているとどうしても傷はつくが、それはそれでよい。

時間は夕方近く。一般の海水浴客もほとんどいない。波は高い。
素足がにがてなので、砂浜でもマリンシューズスタイル。
久しぶりに水につかったのもあるが、泳げない。波が高いのでなおさら。海辺の波の押し引きが強くて、油断すると沖に流されがち。遠浅だとはいえ、まともに泳げない状態なのでやばさしか感じない。荒れた海辺では、視界ぜろなので度付きのゴーグルに意味もない。
1時間ばかり波に揉まれて終了。シュノーケリングにしておけばよかった。

ただ、海につかっているだけなのに、これ簡単に死ねるっていうのに気づくと、海の楽しみ方がわかる。
へとへとになって家にかえり、ビールを飲む。夏なのに、なにか季節とオレの感覚はズレている。キンキンに冷えたビールだけが夏とオレを緩やかに同期してくれる。

07月16日(土)

毎日まいにち、お茶碗すり切り一杯ほどのお薬を飲んでいると、自分の多少の問題を微調整する薬物的調整とは思えなくなってくる。
お薬がオレの振る舞いを決定する実体のような気がしてくる。
頭の中では理屈はわかっている。ある点での障害によってシステム全体の機能が低下している。だからその障害点を改善してやることで全体は自律的機能を快復していくだろう。

閉じて越境しない自律的システムとしての自己は目的がない。

他者に問いかけられ、働きかけられる自身と、他者に問いかけ、働きかける自身が同時並列に行われる状況が嫌いだった。解決したい問題は解決しようと思案している内に別の状況へと移行する。状況を固定してじっくり考え対処したいと思う。今の問題の背景は〇〇であり、真因は〇〇だと確信できる、だから自分は〇〇という対策アクションを実行する。線分AB上を等速移動する点Pは問題を単純化していると気づいたとき、もう14歳ですらなかった。15歳になると、線分AB上を等速移動する点Pは、どこにも存在しないが、誰かが、自分がそれを点Pと設定してよい、ということに気づく。だから、点Pには興味がなくなった気がする。

だからなんだっていう話だけれど、「線分AB上を等速移動する点P」を否定し続けても疲れるという話かなとおもう。
「線分AB上を等速移動する点P」なんて知らなければよかったと嘆いていてもどうしようもないし。

07月15日(金)

ふりかえってみると、個人的な時間配分はわかりやすかった。一日の三分の一は布団の上にいる。仕事も三分の一。酒を飲んでいる時間も三分の一。どれに金をかけるべきか?
睡眠、休息の質があがればそれ以外の活動の質が上昇する。いわゆる基板となるものであり、これが副次的に効果をもたらすのでここに投資する効果はかなり高いと想像できる。
なぜ仕事をするか、というコンテキストにおいて仕事から得られる価値は語れない。勤労は義務といわれても、じっさいピンとこない。死にたくないから生きている、ぐらいのレベルであってほしいのだけれど。このレベルの議論を放棄すれば、生きるための金銭を得るために労働力を切り売りしているっていう話で良いのかもしれない。生きている時間内の質を上げるために資金が必要になることもある。
酒を飲む時間は実質でいうと一日の三分の一は実現できていないのかもしれない。でも、理想的にはその程度が望ましいと個人的には考えている。

何のために睡眠が必要なのか。何のために仕事に従事する必要があるのか。何のためにお酒を飲む必要があるのか。

世の中には気が狂っていない正常なたくさんの人がいて気が狂っている人を受け入れて共存しようとしてくれている。
ただ、その反転した世界を、たくさんの正常な人にも想像してもらえたらいいなと思った。たぶん、想像してくれている人もいる。