kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

08月08日(月)

ウツは脳機能障害にしてもらえれば楽なのにと思う。
脳機能障害で休職する、というのと、ウツで休職する、というのでは、受け取られ方が違う。
ウツ症状の原因は内因性、器質性とかいろいろあるし、代表となる病名もいろいろある。
精神病理学的に機序を理解したうえで、ウツという表面を理解するのと、ただ結果としてのウツの表面を見るのは全く違うんだと思っている。

そんなふうに、ウツが理解されないで困惑している自分を冷静にみると、「正常」だといわれる大多数を非難しようとしている自分の気持ちに気づく。
これも違うんだよなあと思う。
そもそも境界がないのであって、多数や少数の区別すら曖昧なのであって、自分は自分の限界のなかで他者を理解するというだけで、その上で余裕があれば「仮に引いた境界を移動してみる」という実験のなかで客観性を強化できるだけじゃないかと思った。

ウツが逃避だとして、それは必要な逃避であり、逃避しなければ回復不可能な破壊がもたらされる、そのウツは必要、控えめにいって必要悪といえるのではないか。そのとき、そのウツは、安心して享受してこそ本当に価値がある。
さらに言えば、無意識のサーキットブレーカーを前意識化することで超適応する機会にすらなると思う。無意識に沈めておくのがいいのに、意識でどうにかしてやろうとするヤツが一定数いるのはやむを得ない。言葉にならないものを言葉にしないままにしておくのは悪いことじゃないと思う。

言葉にならなくてもいいのに、誰かは言葉にしたり、言葉にして区別する。
言葉にできないものに境界を引くときに心が引き裂かれる。引き裂かれた結果が自分になる。

適合せよ。

08月02日(火)

評価なんてできないんだ。善悪も、善し悪しもない。基準がないのだから。
ずっとオレはそれを信奉してきた気がする。それすらが、固定した観念になって、いわゆるこじらせてしまっていたような気がする。

みんなが良い、というものに反対するという程度のネガティブな反応は意味が無かったんだと思う。そこに意志はない。ただ、バランスをとること。決定されたとしても、賛成ばかりじゃ無い、ということを言いたいがための意思表示はしておこう、という程度のことだった。

会社の会議でも誰にも拾ってもらえないと分かっている意見を、敢えて、やめないように努力している。
少数派だから取り上げられないとして、満足している。
採用されないことがこれだけあった、と提示できることに満足している。

少数意見の取り扱いにはフェーズがある。

誰かが問題提起しているけど数が少ないからとまったく取り上げない状態。問題は共有されず認知もされない状態である。声を上げても意味が無い状態。

それよりかすこしマシな状態が、問題提起をしてその内容についてある程度の認識が共有されている状態。
この状態となると議論の参加者は「意識して切り捨てる」ということになるので問題提起することに意義が認められるようになる。

義務教育のティベートの授業では少数派の意見で、できるだけ後者の状態となるように先生がファシリテーションしてくれたのを覚えている。
絶対多数で話したい問題があるけど、少数派の意見を無視せずに何が問題になっているか多くの人が認知するのを時間をかけてやった。
それらを今回は議論はしないけれど、それはそれとしてそういう問題があるという内容をある程度詳細に、ある程度正確に把握しておくことが無意味じゃないと伝えるのは本当に難しい。

問題をある程度理解したうえで、その問題を解決することを「選択しなかったこと」って、亡霊みたいだとおもう。
うまくいっているときは自分の選択に満足している。
でもつまずくと、亡霊たちが前衛にでてきて、オレの過去の選択の裏返しとして迫ってくる。
ことによると亡霊なのに致死性をともなって現れる。
亡霊も亡霊なりに自分が正しかったと主張できる場があってもいいだろう。
だから、生け贄をもとめるだろう。生の誰かが苦しんでいないと、どんなに正しい論理も共感されない。
生きているやつがすべてくたばるまでこの議論は終わらない。

こんなどうでもいいことでも、自分が生きていてよかったことの一つに数えると、生きやすい。

07月31日(日)

飲み会での失態から立ち直れずにずっと寝ていた。

お酒の失敗はこれまでも何度もしている。そのたびに一人で飲んでいれば、こんなつらい気持ちになら無くてすんだと思っている。
自己嫌悪に苛まれ続けていたので、本当に心臓発作とか原因不明の突然死で消えたい気持ちで一杯だった。

風呂も入らず着替えもしないで、二日いたので体中がかゆい。
いったん、お酒をのんで忘れよう。せめてうまいさけが飲みたいので、外にでかけけてペダルを回す。

夕方、山間だとひぐらしが鳴いている。
風も感じないし音も薄っぺらいし、もはやペダルを回しているのではなく、自分はとまったまま空間がうごいているよう。

そんな感じに汗をながして、お酒を飲む。

やるべきことがあるのにこんなことでいいのか。いや、よくない。やるべきことから逃げ出したい。消えたい。やるべきことは、オレのやるべきことだとおもっていたけど、本当にオレがやるべきことなのか。いつのまにかオレがやるべきだとすり込まれただけじゃないのか。でも、オレがやるべきことじゃなくなったからといってやめる、なんていえるわけがない。もう誰かに嫌われたくない、非常識と罵られたくない。

めんどくさい、いろいろから解放されたい。

07月29日(金)

昔の同僚からお誘いがあって、オンラインで飲んだ。
飲み会なのに、仕事の話をするのが好きすぎて、自分が嫌いになる。仕事のプロセスを話すのが好きすぎる。

酔いがさめて、その構図が客観的に見えてきて、押しつぶされそうにつらくなる。機知もへったくりもない単純な愚痴をはいている自分に本当にがっかりしてしまう。

酔っ払いの自分こそより本当の自分に近いし、そんな状態の自分に死んでしまえばいいというのも、また自分なんだよなあ。
清廉潔白で聖者みたいな自分になれないし、それになろうとしてるあたりが気が狂っている。
清廉潔白で聖者みたいな自分になって、そんなのもっと死にたくなるだけだろう。

悶々としているけど、日常は変らない。メンタルを削って生きている世界を少しずつ広くするだけ。

07月24日(日)

なんとなく時間ができてしまうたびに、日記療法じみたことをしてるのかなと思ったりする。

そういうときの日記はどうやったって普通じゃない。あえて、普通からずらして加工とバイアスが働く。
その日記をみてドクターが、「そんな日もある」と意見を述べる。
それらは偶然にしてもできすぎであり、気休めの言葉をかけたドクターに敵意をむき出して嘲笑することで自分は満足する。

こういった体験の繰り返しよって、自分の思考属性のパラメータが割り振りされていったのかもしれない。
リベラルなのかアナーキーなのか、ペシミストなのか。ただ自分をやりたいと言っても、従属しなければ自分すら生まれないのではないだろう。懐疑主義者。

目が覚めると、ゆっっくり寝た気がする。何か夢をみていた気がする。わかりやすい話だった気がする。勇者になって魔王を倒そうとしていた気がする。なにも映像的には思い出せないが。
雲もほとんどない晴天。コーヒーを2杯のんで、爽快な気分の今日をどうするか考える。
躁状態で抑制など無駄だ。気分のままにやろう。

うつではできないこと。風呂にはいること。掃除をすること。あまり興味が無い物買ってみたりすること。
読めていない本を読み始める。躁状態を相対性における異常なズレとして活用できるなら、きっとエキサイティングに違いない。

ひとしきりしても躁状態は続いている。
日本酒が飲みたかった。久しぶりに日本酒をかう。あてのお刺身を買う。からい日本酒だったがこってりお刺身だったのでよし。
ひさしぶりの日本酒がうまい。

日記療法をしていた時を思い出す。結局、日記療法をなぜするのかとドクターは説明してくれたのだろうか、思い出せない。
日記は自分を追い込んだように思う。意識と文章の両方から自分を縛り付けようとしていたと思う。

日も落ちた。ねる。