ゲームを作るときに、絵、シナリオ、音楽は重要なファクターだと認識されているような気がするんだけど、プログラムは“それなり”でいいんじゃないかっていう気がする。
Nscripterとか吉里吉里があると世の中だし、プログラムなんてできなくてもいいのだ。
わたしもそれを使っていたら、今頃D言語なんてやってないはずだ。
そういった可能性を考えると恐ろしい。
プログラマという職業の仄かに知的な先入観に騙されて、今もこうやってプログラムして食べていっているが、確かにプログラマは泥臭いことばっかりだ。
しかし、わたしはよくもまあ、プログラマを続けている。
ゲーム創作はこれから更に専門的になっていくだろうし、さらに細分化されていくことだろう。そのうちにゲームは映画になるだろう。
一人でゲームを作ることが不可能になる。
良くできたゲームが沢山あって消費尽くされる。
それを拒否しても、結局ゲームを育ててきたのはその消費者なのだ。
売り出されるモノの射程は対応するマーケティングセグメントに向けられている。
こんなところにもポストモダンだ。
売り出されるものには、焼き印が押してある。
結局、それが届けられる相手は決定された事項なんだろう。
消費者がゲーム中で実存を確立するなんていう奇跡みたいなことを実現できたら、ゲームは今世紀最強最悪の有害図書になるんだろうなあと思うけど、電子メディアにはそれは今のところ難しい。