『テクスト』、なんていうカギ括弧つきの言葉を見ると、嘔吐感を催すことがしばしばあるわけだ。
わたしたちが、文字で何かを伝えるときに、醸成された用語大系を参照する。
ハイデガーなんかはその大家であると思うのだけど、カギ括弧付きの嘔吐感を逆手にとるわけだ。
...
とかとか、言いつのっていくと、カギ括弧だらけになる。
文字を飛び出して発話のほうが興味がある。
ネット声優というジャンル、つまり素人が声優をやっている人たちである。
でも、プロがネットを中心に活動したらそれはネット声優になるだろう。
ネット声優の定義を厳密にしないと、「ネット声優」批判はできないと思うのだが、今のところ、「そこにあるサイトのネット声優」という意味合いを短縮してネット声優とする傾向がある。
でもまあ、こんなのはどうでもよろしい。
わたしは発話についてもっと深く知りたいと思っている。
台本によって切り取られた言葉は、固定の発話を声優によって吹き込まれる。
この死んだような発話はなんだろうか。(そしてそれは果たして本当にしんでいるか?)
演劇でのセリフ、発話というのは、例外的と見なす場合もあるし、これを包含する大系をつくろうという試みもあった。
つまり、
発話とはチョメチョメチョメだ!
と言いたいのだけれど、演劇での発話はちょっと問題になる。
「生きるか死ぬか、それが問題だ」
なんて、その人がいっても、その人は劇団チョメチョメの人で、その人が本当にそう思っている訳じゃない。
子供のころ、声の出演というテロップで混乱していたことがある。
わたしは何もしらない鼻水を垂らした子供だったので、アニメが実際にある、生きているものだと思っていたし、それに人間が声を吹き込んでいるなんて思いもしなかった頃だ。
一体、これは何を意味する人たちなのか?
わたしは、この状況下で心おきなくアニメを楽しめていたのだ。いま、アニメの作法とか演出とか形式の批評とかを考えるようになって、わたしは楽しめなくなったのだと思う。
結局、彼ら彼女たちは死んでいる。
肯定的に見ても、生かされている、というぐらいである。
生きていない、のだ。
声を吹き込まれる、という行為自体に胡散臭いものを感じることは今でも多々あるけれど、構築された状態のもの、という土壌に立ってなされる以降の認識は瓦解せざるをえないような気がする。
構築されないものを「書いた」全ページ白紙の本があるのだけれど(信じられないかもしれないが、本当にあるのだ)、やばいぐらいに印象に残っている。
この種の技法のあざとさとか、きなくささはもちろん受け止めているつもりだけど、鮮烈な印象に残っている。
声は恐ろしく危なっかしいまでの力があるのだけれど、わたしたちは、その声をきく以前に、その声を聞き届けていなければならないんじゃないだろうか。そして、その声を聞く以前に、自分でそれの声を絞りだしてみる必要があるんじゃないか。
わたしは発話をネガティブにとらえようとしているけど、これはまだ試験段階だからして、もっとより発話について探究していかなくてはならないのだと思う。