kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

あるいはこの瞬間に選択し得る死について

いくつかの人から、kow@suhitoの書き方は読んでいても分からないと言われたので、なるほどなっとくの上、3分にまとめようと思う。

大学の卒論で未完の論文であるが、これはあたしが書ききれないと自認しているところのものであるし、別に書かなければならないと思っていることでもないが、ある可能性の一部としてこういうものを組み立てようと思っている。それは部品としての積み木が限りない組み合わせがあるのと同じ程度の、署名するに能わない程度のことだ。



・生と死、その概念性について

(本文、略)

・生と死の概念性を突破する現実性について

(本文、略)

・現実性――その非肉体性についての考察

(本文、略)

ヘーゲルと歴史、そこに組み込まれる我々てのシミュレーション的歴史観

(本文、略)

・現代史観、あるいはかけがえのない今の歴史観

(本文、略)

・個人が読み解く歴史と個人の死について

(本文、略)

・個人の死以外の死について――本来性の死の可能性

(本文、略)

・現存在性? クエスチョンのなかの現存在性について?

(本文なし)

・それでも我々が生きようと欲する理由について。当たり前のこと

(本文、略)

・我々が常に死ななければとならないと認める瞬間におけるキルケゴールニーチェとの対話

(本文、略)

・闘争と宗教と個人

(本文、略)

・あらゆる現存在性の破棄と逆説的反存在性の可能性

(本文、略)

・欺瞞中心主義から顧みる、文学理論、絵画理論

(本文、略)

・抑圧的表現と本来的表現――その想定される差異に見いだされる表現手法とその論理

(本文、略)

・それでも表現しなければならないこと――非論理的コラムとして

(本文、略)

・挫折可能な世界としてのこの世界――挫折と我々の関係性、その関係性の突破可能性

(本文、略)

・挫折世界からの突破以降についての問題提起

(本文、略)

・最終的に生きている限り取り組まなければならない問題

(本文、略)

・生きている限り取りかかることのできない問題の問題性について

(本文、略)

それでもあたしたちが取り組むべき問題について

(本文、略)

・最高の表現者でも誤解だらけの表現を綴る

(本文、略)

・自分自身を今すぐに死の物理層に落とし込む方法

(本文、略)

・その効用と批判――自死と自殺の論争

(本文、略)

・現存在――原義的な、原罪的な――宗教的で反吐せざるをえない脚色された強物語

(本文、略)

・それでも、『名前づけられた-named-』な我々について

(本文、略)

・喪失、挫折の中で個人的に見いだされ得る世界と現実世界

(本文、略)

・現実世界、倫理的世界、理想世界――我々が所属する世界について

(本文、略)

・再考――歴史的世界観、歴史的歴史観、歴史的宗教観、そのなかの現代的余り

(本文、略)

・現代的反論についての反論

(本文、略)

・我々が過去に訪れ経験した多様な現実

(本文、略)

・性的な経験と肉体的な経験との差異、その精神的不安定性

(本文、略)

・虚構としての性、肉体的な性、選択可能領域の性と独善的社会的性認識の隔絶

(本文、略)

・性の非社会性、性の“外在個性=(何ものかによって顕在化された個性とみなしえる)”から前進する考え方……



これは学生時代に論文にしようとして考えてしたし、んなのどうかなんがえても論理的じゃないと思っていることである。

ただ、昔に考えたことであれ、間違いないことがある。


我々は論理的に生きてるわけじゃない



結婚しようかどうかはわからないけど子供は生まれるし、生き続けるのに相応しくなくとも俺たちは生きている。

“生きている”という言葉が問題視されるなら、かわりに“死なない”という言葉をあてがうまでだが、この言葉が登場するととたんにややこしくなる。つまり、香ばしくある。


(続くかも)