あたしは常々、空気難読症として周囲から何度も煙たがられてきたし、ある程度自覚しているのだけれど、正確には空気を読むことができないわけじゃないと、思っている。
空気を読む、という曖昧な定義の言葉をもちいるのは創作家のあざとい常套手段であるからして、あたしもそれにのかって、いっちょクリエーターの仲間入りを果たそうではないか。
まず、空気と呼ばれる、そこに参集している各人が共有している共通認識を了解すること。空気難読症、あるいは空気解読障害の人間はここに問題がある、といわれる。
たしかに、その初歩的な問題を抱えた人間はいるだろうが、それは実際に空気が読めないと指を指されている人々のうちの半数にみたないのではないかと考える。
空気解読することはそれほど難しくない。(もちろん、厳密にいくと解読率の問題に発展していくのだが・・・)
空気を解読することよりも、解読した空気の中で、その空気以上に何も言わない振る舞いが想像できないのではないだろうか。
たとえば、重苦しい美術館での絵画鑑賞のとき、空気難読症のあたしはすぐにでも笑い出したくなるのだけれど、実際そこには、空気を了解した上で、嘲笑やら自尊心やらによる、空気解読能力とはことなる時点によってでなのだ。
え? 絵画をみながら嘲笑とか自尊心とか関係ないだろうって? たしかに、その通りだ。そんな言葉が取り上げられたのは、あたしが根っからの懐疑主義者だからかもしれないし、もっと分かりやすい言葉で言えば、あたしが人格障害だからじゃないだろうか。
つまり、空気を解読したうえでその空気を軽んじる行為は、挑発、自己顕示行為、反社会性人格……等々、挙げることが出来る。“空気が読めない”という程度の表面的な問題で済ますことは難しい。
とくに、あたしが空気を理解した上での暴挙、という意味での強引な進め方をしたけれど、本当にこれも微妙な話ではある。
空気を解読することを出来る出来ないではなく、解読率の問題にしたとき、そこには100%解読できる人間は一人だっていない。輪郭がぼけた集合の積。つまり常にうつろう状況こそが空気なんだということもできるし、そのなかで自在に自分の所属位置を修正できることが空気を読むことだとしたら、空気を読むことができる人なんてのは常に少数派ではないか。
空気を読まなくてはならない、というのは一種の文脈病だとあたしは思う。空気を誤読できない人間に魅力はない。
誤読という言葉は好き勝手に読んだらいいという風に誤解されがちだが、テクストを理解しなければ誤読はできない。あたしがいう誤読とは、あえて行う個人的な読みという意味に近いかもしれない。
ったく、こういうブログみたいな即時性のあるテクストでは、こういう極端な話になるのだけど、あたしたちは空気に従属しなければならないのか?
この問いは極論としての国家が先か個人が先か? と同じレベルのうっちゃり方だとは思うが、これこそも彼岸と此岸しかない現代病の一つなのかもしれない。つまり、いまのところ、これら全てをうっちゃって、必要なときにこの続きについて検討してきたい。
必要なときがくればいいなとは思うけど、どんなもんか……