思い通りに現象としての創作がうまくいかないので殴りがきである。こういう書き方はけしからん。
あたしが、考えるとアニメとテクストの第一の違いは等時間であるかどうかである。
テクストは読み手の速度で進むが、アニメは放映速度で進む。
テクストは精神時間で進行されえるが、アニメは物理時間の範囲で進む。
テクストは読み手が好む速度で読むことが出来るが、アニメはそうはいかない。逆にテクストにおいて、トリストラム・シャンディのように書かれた物語でさえ斜め読みされたら、そのテクストの形式上の強制力は無力化の憂き目にあう。テクストの主導権とアニメの主導権は決定的に異なっている。
これによって、よりどちらが優れているかということはない。表現上の特性でしかない。必要なメディアを必要な時に使用すべきだ、という程度の当然なことだろう。
……はぁ、だから、“その程度の違い”っていうのは間違いなんだと思う。テクスト表現派、アニメ表現派というのが“等時間なのかそうでないか”っていう違い“だけ”なら、テクスト派のあたしはそんなにアニメに嫉妬しない。
これはあたしの個人的な課題である。そこであたしは、テクストとアニメを対決させようと思ったことがある。対決なんてできっこないんだけど、それを対決させる方法を考えること、その時にいろいろとテクストアニメについて考えなきゃならないわけなので、これこそがメタ評価。
テクストとアニメのロスレス変換が不可能なことを了解した上での変換コーデックの開発。このコーデックの開発には、テクスト派においては止揚自重を、アニメ派には超理論、必要に応じてメタ作画理論、または現時点での作画理論放棄、時間の再理論化、画面の放棄と再構築、作画兵器の開発、過去遡及的作画殺人演出、動画教化兵器、集産的フリーアニメ....
こういう話を想像するたびあたしは間違っているのではないかと思う。これはあたしが語るべきことではないし、いま、そこでアニメを作っている人が語ること以上に正しく語ることができる人はいないのだ。
ただ井上俊之がタイムギャルの原画をやっているだけで、kow@suhito14歳には十分な説得力のある議論である。とはいえ、こういう議論のやりかたももうやめんといかんかなあ。もう中三だ。
……それは、あたしたちがそうと気づく前にそれはすでにあったんのであり、それは理論化されるまえから、個人的な意味として存在していた。
アニメを無責任に切り刻むのは間違っているだろうけど、まずは切り刻んではいかがだろう。実際、作画をこと細かに切り刻んで批評したがために非人道的だといわれた人間をみたことがない。ましてや、切り刻む側もいないし、それを批難する側もいないのは虚無じゃないか。
もし、こういったパフォーマンスもいやなら、もっと知性的(=回避的)になって街に繰り出さないタイプの作画批評を展開してもいいだろうとおもう。さらに現代的にいうなら……あれっ? おかしいなこのあとの言葉が続かない……。おやおや、どうしてだろう。……ああ! そうか、もう、いま放映されているアニメはその現代的なアニメなんだ。優れている優れていないとか、そういうこととは関係なく。現代的なアニメ批評が、過去のどんなアニメよりも劣っているかもしれない……なんて思うのはあまりにも危険かな? いや、あたしはよく考えるのだけど。
ここまでアニメに因縁つけるとテクスト派もきちんと反論できるんだろうなと期待するんだけど、やつらはやつらで最終兵器として沈黙しやがるから、まったくいけすかない。誠意がない。その意味ではアニメは潔い。
あたしもアニメとテクストと混同していて、もうちょっと真面目に誠実に検討しないといけないんだなあ。