実験のはじまりと
こんばんは、kow@asuhito14歳です。
お久しぶりです。
文字を書くこと、考えることすべてがお留守になっていたので、今ここで熱意とともに想起されていることをなに一つ上手に記述できる自信がないのです。あたしはいつもこの手の口下手を恥ずかしいと思っていますが、実のところこれも一つのテンプレート防衛というある種の思考停止なのだろうとも思っています。
まあまあ、うまく説明できないことをなんとか説明しようとして破綻するというウィットに富んだメタ遊びはやめて、あたしの肩にのしかかる幽霊のようなもの――つまり実験のこと―― について、いくつかお祓いがてらに口走っておきたい。
実験という方法論を選んだのは、イメージというやっかいなもののせいであった。
イメージを共有するというのは、言語上は可能だけれども、実際にはできない。エクストリームな観点でいえば脳みその交換でもしないとできないと思っていた。まあ、今でもそんなふうに思っているのだけれど。
<イメージは損失なしにどこにも到達しない>
イメージをより損失なしに到達させるには、方法と到達距離をサンプリングし、その結果をもとに方法について分析をしようと思ったわけである。
実験であるからして、多くのユーザにプレイしてもらうことを望み、また実験であるからして有償作品であることを拒否した。
我々のイメージの強度について、パッシブに問いかける装置の一部としてユーザを組み込んでみる
という選択がそこにはあったのだ。
そして去人たちはその動機を与えた実験的作品だったわけだ。
そして前にも何度かいったが、実験はうまくいかなかった。
実験しようという試みは間違っていなかったが、実験自体の方法論に問題があった。
我々ののイメージの強度は放置され、クスリにも毒にもならぬ実績が前面に押し出され、ただただ、空疎化したあたしの目標は失敗を無視しつつ、反射的に踏み出そうとしている。
<それでもいいのである>
そうだろう、そうとでも言わなければ、何も書けないし、何も言えないし、羞恥心で生きていることも困難だろう。