どうして去人たちをつくろうとしたんですか? と聞かれることがある。
そのときの気分で小説技法を単純に実践したビジュアルノベルがなかったので暇つぶしとちょっとした啓蒙のため、とか、十進法が人間の思考にもたらす弊害について広く知って欲しかったから、とか、太陽がまぶしかったから、とかそれらしいことを返答することにしている。むしろ、なんでそんな質問をしたいのだろうか。素朴な疑問だからというより、どんな回答を期待し、それをきいてどうしたいのかがわからない。
星新一の作品を読んでいて、星新一がなぜショートショートを書いたのか? そういう思ったことはなかった。抑圧でもしていたみたいにすっかり。
いま読んでいる作品は公理のように存在しているべきで、それが何故つくられたのかについてはまったく気にしたことがなかった。
筒井康隆もそうだけど、好きな作品については、何故作ったかを気にしたことがなかった気がする。
その後、文学理論づくと外部コンテクストもとりあつかうようになったが、そうなるとまるで自分が社会的な人間になったように星新一をよむのは苦痛になった気がした。
それはそれで興味深い体験だったが、一つの壁になったのは間違いとおもう。
では、なぜわたしたちは小説を読んだりするのだろう?
嵐が丘よんで闘争したがるやつらとか、蟹工船読んで上司に反抗するやつとか、居酒屋で居酒屋よんでるやつとか、怒りの葡萄読んでブドウ狩りにでかけるやつとか、はがない読んで友達をすくなくするやつとか、小説を読むということと自分がいる現実の社会をどこかリンクしている部分もある。これは小説を読む上での「愉快なこと」の一つだとはおもう。おもしろいとかおもしろくないとかで読むやり方ではラノベも純文学も大差ないもんです。
国語の授業的には「主題」を求めれば、小説を読む目的は達成される。「1+1=2」を証明したい気持ちに誰もがかられるわけではない。証明したい人にとっては証明したことは「愉快なこと」の一つだ。小説を読む上で「主題」をもとめたくて、本を読み始める人が居れば、それも「愉快なこと」の一つだ。一般的な理由ではないだろう。ミステリなら、謎解きそのものを楽しむわけで、文脈パズルとしてそういったことになるだろうが、ミステリという分野に特徴的なだけ。
やはり、根強い支持があるのは「カタルシス」か。小説を読み進めると心地良い精神的な負荷がどんどん増えていく、しかし終盤に一気に解放されて精神負荷から解放される。この場合、端的に消費型の物語になりがちだし、受け入れられるのもはやいがあきられるのも早い。興行性は高いが、超時代性には薄いものが多い。
今だと読書にかぎらず暇つぶしのための何かが増えてきたから、本当に暇つぶしというのもあるだろう。感覚を何かで満たしておくことで、時間を空転させる。これには「時間と存在」から一次的におさらばすることによって負債を未来に繰り越すという効果がある。
みなさんはなんで小説なんかよんだりしますか? なんでゲームしよりますか? なんでアニメ見たりしますか?
なんで小説を書こうとおもったり、逆に書こうと思わなかったりしますか?
なんで生きることや、死ぬことを断念しようとしているのでしょうか?
答えられるあなたがたは、ほんとうにまぶしい。あたしには直視できないほどに――ハレルヤ!
答えられないあなたがは、明日になっても、明後日になってもきっと答えられないでしょう。でも孤独や不安を感じることはないでしょう。それにそうだとしても、たかだか、自分の一生がゴミくずのように思えるだけです。ただ、ずっとそう問い続けることには価値があるかもしれません。あなたがたは、問い続けられることで、誰にもない新たな問いを見つけることができかもしれません。