あたしも印象批評でないというだけの、中身のない批評になってしまうので、あまり批評はしたくない。
批評家という肩書きもあまりきかなくなった気がするが、多くの知識人が批評を公正なものにしたからではないだろうか。
印象批評が、その資格もないのに裁判官になっておもしろいおもしろくないといって、作品価値づけし、作品の正当な評価を蹂躙する人だとするなら、そんなものはいないほうがいいというのも心情として理解できる。
しかし、批評がアクロバティックなまでに、それこそ批評論法の好き嫌いで無節操に発展したせいで、理想的な批評が、何か概念的でわかりずらい、ある種の宗教的な価値観の押しつけだと誤解されてしまったように思う。
小学校の国語算数理科社会で、十進法という原則における弊害を語らないのは悪であるし、理科でプランク定数抜きで、電圧、電流を語るのはもってのほかだし、ミクロ経済学をなしに第三次世界大戦を理解しようとしてもその本質は理解できない。国語だってそういうわけで、文学理論抜きで主題を導出せよなどいう意味不明な教育がまかり通るのは異常としか言いようがない。でも、わたしたちはそういうものだと、疑問を持たずに来てしまった。
電圧、電流、電力の関係についてプランク定数抜きにそういうものだと理解してきた。これにはまだ公式があった。授業で公式をたたきこまれる。
だが国語はそうではない。作品ごとに先生が、読解について黒板に書くわけだ。それを信じなければ国語の試験はパスできない。小学生でもおかしいなあ、へんだなあと思う程度の、ある一つの可能性を強要して、それについて心情的な納得を与えることはない。現代のコンテクストにおいて、文化的に合理的な主題を強要することで、ある種の思想因子を植え付けようとしているといわれてもしかたない。こころの作品の主題など同時代人がいうなら少しのリアリティはあるが、今、作者の主題など考えるなら1つの論文でなければ言及することなどできようもない。そんなことに時間を使うなら、時代ごとにどのように「主題」が変遷したかを説明する比較論を学ぶ方がよっぽどためになるというものだ。
批評を正しくしようとするのは本当に良いことだと思う。だけど、批評のための批評では意味がないんだろうなあとおもう、連休最後の日なのであった。
サザエさんのいない連休の最終日、この憂鬱もまた新しい憂鬱だと思うとワクワクするんじゃないかと思って、殊更テクストに残してみましたが、やっぱり、そこにずっと佇んでいるだけみたいですね...