空からオタマジャクシ
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10歳の頃にはKnuth先生にあこがれたり、12歳のころにはやねうらおのギャグにもんどりうってたわけじゃないですか。
でも14歳になってうすうす気づくんです。自分は凡人なんじゃないかと。
逆に、14歳になるまえは自分は雷にうたれたあと、悟りを開いたトリックスターだとうっすら思っていたのです。
14歳の思考能力で
・凡人である
・凡人ではない
・非凡でも凡人でもない
についてそれぞれ深掘りしてみました。
■凡人である
凡庸であるか非凡であるか、いったいどのように区別するか、という原則に立ち返ることになります。
パラメタ値の合計ではなく、パラメタ値の偏りこそが、凡庸か非凡かを大きくわけるのではないかと思います。
アンバランスさが際立った能力をさらに加速させるのではないかと。
アンバランスさという点では、個人的にも相当アンバランスであると自負していたしたが、時代ともにそういったアンバランスさの偏差が大きくなってきたように思います。
元が異常だったように見えますが。
アンバランスさをもって非凡だと勘違いしていた自分はあっという間に凡庸になりました。
■凡人ではない
わたしは凡人ではない、というのは自分の信念に従って、自分の表現活動を評価し、顧みて、よりよいところへ進みゆくことができるからです。
その手法はありふれたことで、難しいことはありません。卓越した思考能力でそれをより効率よいものにすることはできますが、わたしにはできません。
では、わたしがなぜ凡人ではないかというと、そうしようとするエネルギーが一般にくらべて遙かに多く備蓄され、かつ注入されているからです。
特殊な内燃機関をもった車が険しい山を登っていくのに似ています。
でも、その内燃機関はわたしとあまり関係ないのはよくしっていますし、非凡だと言っても空からオタマジャクシが降ってくるのと一緒のようなものです。
■非凡でも凡人でもない
普通という基準があってそれ以上であれば非凡、それ以下であれば凡人とします。
やはり普通という呪いにつきまとわれるのか、ということになります。社会的、文化的要素によってその時々で評価される「普通」について、ある時においては凡庸で、あるときにおいては非凡かもしれません。
つまり、今現在は凡人でも歴史の中で非凡と凡人を繰り返すたゆたう存在なんだと。地球文化ではずっと、凡人かもしれないけれど、別の惑星からきた宇宙人が解釈したら、ゴミくずのような卒業文集が宇宙規模の非凡な芸術かもしれない。
と、まあ、こんなことを考えちゃうから無責任に「オレの作品は新しすぎて評価されない。死後、何十年かあとに評価されるだろう」なんていっちゃうわけなんでしょうけど。どのようにもあり得る未来では常に再評価されるわけで、すべての未来における可能性の中で作品は評価される、そして自分は死んでいるからその未来に責任はないっていうのはどう考えたって都合が良すぎます。あ、これは今回の話と関係ありませんでした。
14歳になると、いろいろ面倒なことに気づくんだと思うんです・・・