練習①
文の書き出しで悩んで何も書けずに何日、何週間、何ヶ月も経ってしまうという逸話の話をすると何も書けそうにないときのエントリーもすんなりと書き出せる。文章というのは書き出して調子がのれば、ある程度は筆が摩訶不思議な自律性をもってテクストが編み上がるわけである。
はあ……
しかしこの序文、言葉の端々まで本当につまらない文章だなあと我ながら意気阻喪している。
本当にもう文章を書くということをしていない。エクリチュールっとアバンチュールの違いすらもすっかり忘れてしまった。
文章下手なのはまだしょうがないと思うところもあるし、うまい文章にはこだわっていない。もちろん美文なんぞ書けないわけだが、別に強がりで言っているわけではない。美文という形式を味わっている時間がなくなったことで、個人的に美文体なんていうのに関わり合っている場合じゃないのである。
ふむ……
何かを書くことを楽しんでいたきがする。記事には読者がいて、それ読んでいる誰かがいた。あたしが13歳かそのぐらいのときだとおもう。13歳の考えていることなんて誰もが想像できるように(そして誰もが経験したように)誇大妄想的、自己愛的な有象無象の集合体でコーティングしたゴミみたいな空虚な存在である。ある考え方によるとこんなことを書くと批難されるわけだが、彼らの言い分も結局のところ偉大なゴミであると言っているだけに過ぎない。
そんな評価が分かれるゴミがなぜ、いつもいつも文章をある誰かに向けて書く必要があったのか。
あ……
なんとなく想像できるところはあったが、確信がない。
この確信のなさが、書くことの動機になったんじゃないか?
練習②
文章という形式がどうでもいいなら、コンテンツをいかに面白くするかを考えよう。
文章を書く練習はまずは物事考え、系統立て見ず知らずの誰かに伝達する作業だ。まずは文章はおいておいて思考の訓練だ。しかし、気が乗らない……
ではなぜ、思考訓練に気が乗らないのだろうか。
- 賢者になったため、賢すぎて結果が見えていて考える余地がない
- よく訓練されて優秀な思考に価値が見出せない
- ただただ怠惰なだけ
賢者になったため、賢すぎて結果が見えていて考える余地がない
なるほど、たしかに昔「なぜわたしはこれほど賢明なのか」といった人がいるようにおもう。確か誇大妄想的な人ではなかったか。
よく訓練されて優秀な思考に価値が見出せない
難易度が低いのでレベル上げは不要、これ以上レベルをあげたらヌルゲーということだろうか。意外にこれはありそうだ。インターネットに繋がれば優秀な主体的思考は不要になることもあるだろう。誰かが考えたことをより集めて自分の嗜好にあった考えを導き出せばいい。思考は不要だ。
ただただ怠惰なだけ
思考すべき逼迫した状況にないということか。考えなければ生き残れない状況になれば否応なく考えるのだろうが、考えなくても当面死なない。死ぬことが恐ろしければ死なないように考える。なにも考えなくてもたいして死にそうにはならない。
つまりは、考えるよりも考えない方が楽で考えないから、本当に思考停止したその点の中で差し迫った生命の危機にも気づけずに居るという危機的状況か。
今後のミッション
練習をもう少し続けよう。
- 簡潔な文章をかけるようにする
- まずは読書日記ぐらいから
- 身近な日記のようなものをつける
- 他者、または、あなたがたを見つける
- 突発的な引用をうまくやる
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