kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

性的回想

復習:ニコ生(エロスとタナトス

去人たちという創作にどのような動機付けが存在し、それが感性によって書かれたのだろうか。
断続的に考える時間があったので、すこしだけまとめておきたい。
去人たちエクリチュールというかっちょええ言葉で題名をつけられるような内容にしたかったが、たぶん、それにたいする思考内容と、結果、書きあらわされる内容はかけはなれたものになりそうなのでやめておく。

一般的「性」の解釈

もはや、このような読みが意味があるのか――こんな風に前おきしないといけないなんてなんて不自由なんだろう――全く確信がもてない。そもそもポストモダンという濃霧に舞い込んで同じところをぐるぐるまわっていると自認するあたしが、精神分析的な術語にどれだけの確信をもっている?
一般論から考える。性欲、あるいは性的なものが含まれない作品があるとすれば、それは機械が自動生成したものではないだろうか。みな、人間は性的なのだ。
精神分析文学理論的に推し進めれば、性的なものは性器的なものに還元されないという前提により、ポルノ的、扇情的な要素は直接評価されない。
つまり既知の「性的」という巨大で複雑な体系に組み込まれてしまう。
それに読み手の統一、結合しようとする「性」が絡み合うだけではないだろうか。
去人たちに性欲動は存在しない。性欲動は読み手にしかない。
そして精神分析にいえば人は多かれ少なかれ性的に倒錯しているのだという。そこから自然と導き出されるように、「男性が女性に対して性的関心をいただくのは自明のことでない」。

去人たちのエネルギーミックス

今日では、個人の感想をいうのは難しい。とくに記録にのこるようなものは。
個人的には去人たちはタナトス死の欲動)のエネルギーの備給が第一にあるのではないかと思う。そしてタナトスに引きずり込まれるように混然となったエロスがあり、エネルギーが一方的に備給されたタナトスによって細切れに引き裂かれつつあるエロスにたいして倒錯できるかどうかという気がする。
これは構造的な話にすぎないから、あんな人やこんな人がもとめる刺激的な「去人たちらしい性」という回答とはちがうだろう。だが、これ以上はどうやったって自分以外に語るのを断る。だってあたし個人以外にはただただ面白くない。あるいは、こんな面白いことを誰にも漏らしたくない。


あとがき

上記のような「術語」だけではほとんどの個人的にいいたいことが漏れ出てしまう。
「術語」を使うという選択肢は今回の回答の一番安易な方法だった。であるから、この記事はすぐに力を失うであろう。それは少し残念である。
そして確実にそこにあった過去の事実は、客観的な記録のない今、その事実が事実として存在としたと誰もいえないということを、強く実感した。それは恐ろしくもあり、そして希望のようにも感じた。体感的には息苦しく、首に鉛の首輪でもぶら下げられた感じである。希望が無ければ、こんな気持ちにはならないのにと思う。
あ、でもこれは去人っぽい気がする。個人的に。