kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

再読:虚航船団

創作という行為はつねに何かと何かの断絶によって分断から生まれている、と仮定してみる。
仮定するからにはケーススタディを挙げる必要がある。だが、できない。故にこの仮定は破綻している。

だが、続ける。

(以下、この全否定された空間でどのように語るのだろうか?)
葛藤という点に注目して文学を比較論評したものがあるが、ある価値観同士の境界である「裂け目」は創作空間における強い動機付けになっているのではないかと思う。
「裂け目」をどう自覚的に物語り構造に持ち込むか、という点で「メタフィクション」はとてつもない効力を発揮した。
たとえば虚航船団の特徴的な「裂け目」は、擬人化された文具と被虐的なまでにカリカチュアライズされた人間性ではなかったろうか。
そこにおいては、良くも悪くも「カリカチュアライズされた」ために「直視するしなくてもよい」喜劇的な人間のおかしさとして消化することができた。
「直視するか」「直視しないか」という中で、虚航船団は「直視しない」という選択肢とともにを偶像的なキャラクターとして消化しやすかったのではないかと思う。


ところで、奇人変人の集まりが快進撃を続ける作品ってすごい楽しいと思う。
だからさ、虚航船団もそのジャンルにいれてお終いでいいんじゃない?


いや、それはダメだとおもう。
そんな合理的な説明で納得させてはいけない。
そもそも、どれだけ文房具が好きだといっても、作者が読者に文房具への感情移入を強制できるものではない。
ましてや、その強引な感情移入を合理化するためにメタフィクションという構造でもってその構造すら相対化しようなどとはもってのほかである。


え? 虚航船団ってだめなん?


再読に耐えうる作品というのは限られていると思う。
さらにその中で、再読中に前回の読みとどれだけ新しい発見があるかというと、それもなかなかない。
虚航船団の中でのメタフィクションは、こんにち多用されているような「メタい表現」とはちがう、限定的な使用に徹しているようにおもう。


さて、分断された個人が同時並行的に1つの記述を解釈してみようとした。
いまあたしはここにいる?という実感と、いまあたしはここにいる!という実存と、いま読みつつあるメタフィクションという嘘が渾然一体となって、いまそのときの意識を形作るという虚構も最高にサイケデリックでイケテルと思う。