kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

kow@suhito が双星の陰陽師のOPをそれとなく書く

kow@suhito は「双星の陰陽師」を一切、なにも知りません。ですので、ファンの方には不愉快な記述があるかもしれないので、そういう方は、下記のコンテンツへジャンプしてください。

筒井康隆 - 公式サイト

え? デリダってだりだって?

そのたびごとにただ一つ、世界の終焉〈1〉

そのたびごとにただ一つ、世界の終焉〈1〉

オープニング

京都

京都ってさ、やっぱり碁盤の目のようになってるよね。あれってすごくいいんですよ。マッピングしやすいし、迷うことがすくない。
大阪なんてだいたいにおいて都市計画がメチャクチャなので、北に直線道路だとおもったらもういつの間にか真西にってるわけ。あれはほんとうに良くない。今の進行方向が北だとおもって自信満々に右折したら、その実方角は南だからね。もうやんなっちゃう。えっ? 陰陽師がどうしたって? 陰陽師って間違ったエロいイメージしかないんだよなあ。たぶん、ほとんどがあかほりさとるのなんかのアニメの影響だとおもんだけど。
そのイコン的な、陰陽師がつきまとう3人みたいのはさ、運命とか宿命とかっていうのは、人間の自由意志を軽んじているので嫌いだって、いってる架空の人物がいたとおもうけど、まあ、それはそうだよなと思うので、そこに対しては抵抗していくのかいかないのか、楽しみだなと思う。
※原作のことはなにも知らずに書いています

子どもの二人

絵面から判断して何がわるいのか。さあ、絵面から解釈してみようか♪
めっちゃ、ほこりっぽい。完全にこれはアレルギー性の反応である。かくいうわたしもハウスダウトでくしゃみはとまらなくなる。これに至っても生理反応でありいたしかたない。ところで、格子状の影ができてるんですが、どういう窓なんですかね?
右手にめっちゃ包帯まいてるけど、ちょっとほどけてるのはどういうことなんだろう? っていうか包帯なのか? ここにきて包帯のゲシュタルト崩壊である。包帯が象徴として使用されているに違いないと確信するまえに、いやいや、そんなはずはないと自分自身でたしなめてみる。
 っていうかあれ、包帯とはかぎらないよね。マスキングテープかも知れない。それは語られていないのだから確定することはできなのだ。
あっ、わかった。察した。これはあれですよね、象徴としての包帯ですよね。ミサンガとかウッタラ-サンガみたいな、なにか呪術的なにかに違いなくて、それがうまくいかなくて、絶望の号泣ということに違いない。
しかし、ほこりっぽさによる発作的アレルギー反応っていう線がすてられないのが解釈をより複雑にしている名シーンである。

少女は棺桶にすがりついて涙を流す

ここでは読み手に対するミスリードを提供していると考えていいだろう。大小2つの棺桶をよく見て欲しい。一番大事なのはこの仕上がりである。それぞれの木目調はまさに完璧であり、これに一切なんの価値もなくなった死人をいれて、埋葬するなんてなんてもったいないことだろう。(おそらく)陰陽師的な因果を拒否し、人間的な自由意志を確信し棺桶職人に弟子入りした少女は、親方のつくった棺桶を目の当たりにして自分の未熟さを痛感し涙するシーンだと想像する。
結果、自由意志をすてて宿命や運命に流されるまま少女は棺桶職人を諦める、という流れになることが想像できる。
ちなみに、このシーンにおける月明かりに照らされた木の影のような演出は、マイナス×マイナスがプラスになる、という秘められたイメージであり、あらゆるネガティブ性のなかにおいても失われない実存としての人間性を暗喩していることに誰もがすぐに気付くだろう。

金髪美少女は日本の神社で悪意を抱く

金髪美少女は表面的にはきゃぴっ☆としているが、腹の中では恐ろしいことを思い描いている、ということをこの中で描いている。これは非常にレイシスト的な表現であるとおもいがちだが、ちょっと待って欲しい。光源の位置と金髪美少女の位置から、鳥居の影はどう考えて別の影である。あぶないあぶない。また、ミスリードに誘導されそのまま怒りの矛先を自らのコンプレックスに起因する読者中心の解釈にとらわれるところであった。まさにこの演出自体が受容者へたいする痛烈な批判であると解釈する。
さて、ところで、この光源からこの影ができる経緯にあたり、科学的な検証を実施してみたが、カメラの手前に紙人形的なものが存在していることがあきらかになった。
あ、LIMBOおもしろいですよね。

蛍・水辺・三本の竹

当然だが、これらはすべて隠喩のは明白である。なのでリアリティを軸に現実的な解釈をしても快楽は一切発生しない。竹が水生植物でないことをいくらたらたら文句をいったところで、誰も得をしない。三本の竹がとくに光源的に強調されているのはなぜか? まずは蛍がそこを照らしているからだ、と考えるべきだろう。ただし、物理エンジンの精度などという問題をこえて蛍の位置関係と光源はどうかしている。であるから、この空間は非ユークリッド空間であることはまずの前提となるであろう。簡単にいえば、この世ならざる世界である。
また、蛍というとくに日本的な表現を利用している点でもその点についても論拠となるだろう。蛍は、人の霊が変じてなったものと考えられていたわけであり、タケはいまでこそどこにでもあるが、日本古来の文化として呪具として利用され、神霊が宿ると信じられていてどにでも手に入るものではなかった。配置としての人と蛍と竹のなかと、コントラストの妙がこの物語の解釈のしかたを仄めかしている。

夕日と巨人

夕日と巨人とレンズフレアレンズフレアというのはメタフィクションのなかでとても難しい扱いである。レンズフレアが描かれている以上、この像は肉眼ではないということを表している。客観的な世界のなかで、日常世界に巨人がたちあらわれることをどのように感じるべきか、ということの方向性を示唆されていると感じざるを得ない。あ、ということは、安心してみて良いシーンなのかな、と考えてみてはどうだろうか? レイアウトの良さとか色合いとか素直にかんじたらいいのである。物語や意味は構成を考えるのではなく、感じるシーンなのだと。
ふう、と呼吸をはく。わたしはそのとき、棺桶屋の職人とかいってたけど、本当にあってたかなあ、などと少々現実的な疑問が脳裏をちらをかすめたが、個人的な問題なので黙っておこう。

ふたたび水辺からお送りする二人

ってか、おい、結構、水深ありそうだけど! なんていうのは、やぼ。アートが分かってない。たとえば、映画で水から這い上がってくるシーンなんかを思い起こして欲しい。現実的な水の表現なんてヤバイのである。髪の毛なんかびっしょびっしょでもうまとわりついて、誰だかわからないに決まっている。
であるから、このシーンもまた、非現実的な象徴的なシーンだと解釈できる。
現実的はハウスダストアレルギーの少年と、現実的には棺桶職人に弟子入りして挫折した少女は、この非現実的な空間にたまたま居合わせて、そして互いが互いに相手を求めるのである。まさに意味の垂直な大騒ぎであると言わざるを得ない。受け手は自分の今までの解釈を確信するか疑うかの自由を実感しながら、ふとサブリミナル的に入り込んでくる、殺人的な縦巻きロールの髪型の女性はいったい、いつ登場するのであろうかと、ワクワクすることすらできるのである。あるいは、あれは幻であったのかもしれない、などとと自分を疑うことすら快楽である。

そして戦闘へ……

さて、わたしやあなたがたの期待はどうあろうと、物語は進行をとめない。直視しろよ、現実を、と言わんばかりである。
このあたりに関しては前回のニコ生で @yama_ic さんが見どころをつぶさに語ってくれているので、補足することは無粋というものだろう。この二人の少年少女が協調して巨人を斃すところを映像の中で満喫できる時間である。同じ時間を別カメから別の角度で見せるのは胸熱だと実感する。

成熟した少年少女は過去の自分たちに手をさしのべる(回想は死亡フラグ

ハウスダストアレルギーがしんどいのかもしれないし、棺桶屋に弟子入りして挫折したのが本当につらかったかもしれない。だけど、いま未来の自分から過去の自分に手をさしのべて、それでいいんだといわんばかりである。代償行為、通過儀礼のような表現なのかもしれないが、これは時間的な倒錯であり、リニアに進む時間の中で解釈は自由で或るということと同時に解釈がいかに恣意的であるか、という警告メッセージである。なぜなら、このシーン全体が死亡フラグを予期していて、これはドラマツルギー的な予定調和であるからである。

最後に二人は幸せなキスをして終わる

嘘だけど。
今回、目については語らなかった。アニメをみるとき、個人的にはキャラクターの目を追うことがしばしばある。だが、今回は個人的な感想はどうでもいいと考え意識的に除外した。
まあ、これも嘘なんだけどね。

まとめ

この、アニメのOPをみて感じたことと、どう解釈したかは大きな隔たりがあるということだけはここに書き記しておこう。
みんなも双星の陰陽師をみて、感想を書こう!


ではまた、次のオープニングで。