前置きは抜きで行く。
だから、去人たちをプレイした多くのプレイヤーはレビューを書こうしなかった。
こういう、結論でプログを書いたら、静的で価値のないコンテンツになるだろうと安心している。さて、書いてみようか♪
長い時間をかけてヤケクソで最後まで読みきった。
切らずに最後まで読んでいただいたことには感服する。おそらく前評判があったらこそだと思うが、むしろもうしわけないという気持ちがある。
前評判をもとに、がっかりした映画を見たとき、アルバムを視聴した時の気持ちを私はよく知っているつもりだから。
時間や対価を支払って消費するコンテンツに価値がなかったときの絶望感は皆が知っていると確信している。
とくにコンテンツの中には最後の最後でコンテンツの評価を覆すような大どんでん返しでその作品を成立させるようなものがあるので、切り捨てずに最後までやってしまう場合があるが、ざんねん! 去人たちはその手の作品ではありませんでした! という応答になってしまう。
当時の状況において、ノベルゲームをやっていればいるほど、去人たちにははまり要素はないだろう。あらゆるノベルゲームが出てきた中で文学的な挑戦は一切無視されていた。筒井康隆が文壇から無視されていること書いたエッセイを読むのが好きだった。「あんなに面白いものは文壇などという権威から無視されているのだから、わたしたちが個人的に愉しんで応援しなれば」みたいな少々やっかいな勘違いすらしていた。
しかし、そのわりに読んでいてあまり楽しくない。とにかく、無意味に難解かつ読みにくい文章が、ひたすら延々と最後まで続く。
実は、この現象、わたしもよく分かる。貧乏性で最後まで読んでしまうが、「良く最後まで読んだね」といわれることがある。思想・哲学書では良く或る話だけど、近代の文学では有名どころでもそういうのが多くて本当になにもわからないのに、最後まで読んでしまうことが多かった。
たとえば当時、「ねじまき鳥クロニクル」は理解できなくて愉しい作品だった。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」から「ねじまき鳥クロニクル」という文学的事情はおいておいてもこれは愉しい体験だった。正直、わたしにとってはこの体験があったから、大江健三郎のような作品を読めるようになった。そして、文学とはなんなのか、ということすら、やっと考え始められるようになった。
セカイ系とはなにか! などと深くが考えていなかったのだけれど、非合理的な事で空想的で非現実的でありえないことが、虚構の中で起こることに恐怖を感じなくなっていた。超虚構という概念によって虚構が解放されたこともあるが、これはまた別の機会に。
最後に。
直感的に相容れない作品を最後までやって得する確率は、3割。ごく控えめに言って。
- 作者: 村上春樹
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1997/09/30
- メディア: 文庫
- 購入: 11人 クリック: 149回
- この商品を含むブログ (508件) を見る