酒量が増えたが目覚めはマシ。酩酊感のようなめまいが少しするが直ぐにおさまる。毛布も黙っている。radiko でニュースを聞きながら家事をする。規制、規制、規制。頭がおかしい。帰りの会でみんな目を伏せて、怒らないからやった人手をあげて。人間の児童化に気が滅入る。嫌いな皿洗いをしながら念仏を唱える。
「誰ひとり僕のことを知らず、僕の方も誰のことも知らない場所があるならね。そこで何をするつもりだってかっていうとさ、聾唖者のふりをしようと思ったんだ。そうすれば誰とも、意味のない愚かしい会話をかわす必要がなくなるじゃないか」
名案。野崎版と村上版で抗争を繰り広げることもない。
菓子パンとコーヒーで簡単な朝食を済ませて、自転車散歩にでかける。山を越えて海に出る。日陰の岸壁にはりつく例の虫が例の虫の動きをする。ヤツらは同類である。背筋がむずむずする。どういうセンサーなんだろうか。きちんと近くに迫ったときだけに待避行動ををとる。正確すぎる。視覚? 赤外線?
今日は風が強い。碧海の表面には白波ががたっている。うねりはない。風が海面をなでる指先がみえる。釣り人は風に難儀する様子もなくどっしりと椅子に腰を下ろして釣り糸を垂らしている。
オレは海をあとにする。勾配二〇%を超える短距離激坂を超えて女縄市の市街地へ戻る。昼になっている。蕎麦でもたべようかと思ったが新型コロナウイルスの影響で休業している。諦めてそのまま帰宅への道を進む。途中で適当にランチをとる。一人での入店で、「カウンターでもよろしいでしょうか」と確認される。カウンター席の椅子は四つしかない。カウンターとの端と端はオレの心理的実感によると一光年ほどはなれている。これが社会的距離というものかと驚嘆する。数ヶ月ぶりの外食である。多少の贅沢も許されるであろうと思い、とんかつ重を注文する。キャベツたっぷりで肉厚のとんかつ、薄味だがコクのあるソースをたっぶりつけてたべるとごはんとの相性は抜群である。疲労ですこし胃腸は弱っていたがぺろりと平らげることができた。
時間は二時前。家に帰ってもすることはない。それに仕事も迫っている。今のうちに満喫せねば。カラオケにいくことを決心する。名破市ということの過疎が進んだ地域ににもカラオケは存在する。むしろ存在することが奇跡であるが。カラオケの受付に行く。
「お二人ですか?」
深く考える。なぜ二人なのか? オレは二人でくるような人物にみえるということなのだろうか? そうだ、オレは二人でくるべきなのだ。そのようなきあわめて社会的に良好な関係性を築けるべき人間なのだ。ありがとう。
「いえ、一人です」
受付の女性は表情を決めかねる。無表情にはできず笑顔にもできず、少しだけ口角をあげる。よく知っている表情。人は表情を作るのが下手すぎる。もうちょっと勉強すべきだと思う。フリータイムで一人とつたえる。終了は十分前におねがいしますとのこと。除菌作業があり、十八時からの客との入れ替えのために前倒ししているとのこと。
「オレみたいな世界最低に近い害悪な菌はコロナよりもひどいので建物ごと破壊しないと滅菌できませんよ」
オレが笑顔で冗談をいうと、店員は「ですね」といって受け流す。相手もプロである。
オレは数ヶ月ぶりのヒトカラに興奮する。床に寝転がってごろごろ回転してみたり、人類みんな死んでしまえーと絶叫してみたりする。ほとんどプライベートで心の中で思っている不謹慎なことも一切がっさい、発声してもだれも咎めない。みんな死ねば良いのにね。いや、オレが死ねば良いのか、てへてへ。我文町に越してきても歌う曲は変わらない。
Cocco、筋肉少女帯、鬼束ちひろ、尾崎豊……
Raining は数十年前よりほんの少しだけ上手くなった気がする。どうだ見ているか。なぜか泣けるぜ。ノゾミのなくならない世界はより望みがなくなった。感染はコロナウイルスよりも深刻。そしてオレはいまもほんのときたま、死のうと思うことがある。導入が済むと、適当に amazarashi や fra-foa、中島みゆき、 小谷美紗子などなどで喉を破壊する。最後にギプス、落日、流星群を気持ちよく歌って切り上げる。あっという間の五時間。デンモクとマイクを返却する。女性店員はちょうど他の部屋の掃除に向かうところ。目を合わせようともせずに受け取り、「ご利用ありがとうございました」と発声する。視線が交差することはない。素敵である。
十八時前。空気は冷え冷えとしてくる。夏はもうちょっと先。自律神経が壊れたオレの表皮を焦らすようにしっかりと冷やす。中途半端な時間。そうだ、海を見よう。伊花多ヶ浜が帰り道の途中にある。綺麗な砂浜。まだ日はギリギリ落ちない。浜には小さな波が打ち寄せる。波打ち際にはもう誰もいない。砂浜にかかる突堤に座り波を眺める。何も考えない時間。するといろいろなイメージが想起される。
なんでオレは今日、こんなに「充実した日」をねつ造する必要があったのだろうか? 今日以外にも同じ「充実した日」は作り得た。復職が決まったからである。今日は充実した、と言いたかった、だからそれをねつ造した。なるほど。波は打ち寄せ砕け、ただ音を残して形を残さない。今日は充実なんてしていないんだ。今日は異常であった。オレはオレを偽るためにどうしても今日をプロモーションする必要があった。オレは健常であり、コミュニケーションを正常に交わすがことができ、アベレージな個人活動を誰に認められるとでもなく、自信の興味のためだけに消費できる。
海はただ、そこにあり、潮騒はずっとそこに不定にある。
「海は生命の源だといいますし。あたしも疲れたらコーヒーを買って海を見に行きます。ぼうっと見ているだけでも不思議と癒やされまよね」
食木崎先生が診察の時にオレに語ったエピソード。なぜ先生はそんな示唆的なエピソードを語ったのだろう? もはや指示的ではないだろうか。そしてオレはどうしていまこうして海辺にいるのだろう? オレは食木崎先生に転移しているのだろうか? たしかに。もはやそうとしか思えない。
「オレは食木崎先生に転移している」
口にしてみるともはや地獄であった。死にたい。つまり、間違いなく事実なのだ。しょうがないが事実としよう。そして患者が主治医に転移するのは特段わるいわけでもない、主治医も転移からの治療を試みてよい。だから、食木崎先生は「海は生命の源」といったのかもしれない。オレは治療を強いられている。でも……
オレはかぶりをふって思考を中断する。家に帰る。
風呂に入って既製品の夕食を食べる。うまい。十分に。美味しに貴賤なし。
あっというまに二十時を過ぎている。今日はエクリプスの打ち合わせ。なんの準備もできてないがこれはこれで予定どおり。議事録を用意する。もう、オレがやる必要あるのだろうか? みんなオレが死んだ先のの未来のことを考えたりしてくれているのあろうか? 人は簡単に死なない。でもカンタンに死んだりする。
ラーメン大好き河合さん、行方さんが合流する。オレは少しカラオケやそのあとの行動を失敗に感じる。ちょうどいい感じにテンションが下がっている。申し訳ないが、まずはお二人の話にのっかりつつテンションを上げていく。さすがにオタクよりのトークで否応なくトークに引き込まれテンションが上がっていく。お二人とも基本的には平均的にどうかしている。褒めている。平均をこえてどうかしているとは犯罪者の婉曲表現であるからだ。
今回はインセプションデッキの続きをやる。「我々はなぜここにいるのか」「エレベータピッチ」「やらないことリスト」「夜も眠れない問題」はしっかりと議論を重ねて磨き上げた。今日は「トレードオフスライダー」だ。
オレが仕事で失敗したすべての例をもって最善を尽くす。インセプションデッキはプロジェクト憲章としてなくてはならないものだが、現実世界ではあまり時間をかけて作ることは難しい。そして時間がかけられない、という理由でインセプションデッキは存在せず、プロジェクトは失敗する。インセプションデッキがなかったことがプロジェクト失敗の原因である、という仮説は常に採用されない。それがどのようなシチュエーションにせよ、非精神性に依る物的リソース管理にいて不都合だからだ。正しいモノを正しく作るのには熟練が必要だし、それには学習や失敗工学を理解してもらわないといけない。しかし即物的な投資家にはそのことがわからんらしい。高速PDCAという言葉を使う経営者には注意すべきだ。PDCAは困難だ。それを語らずに高速という話をするなら夢想家か気違いのいずれかだ。
オレたちはじっくり時間をかけてインセプションデッキをつくってきた。嘘もない。建前もない。だから、突っ込まれて慌てない。だから、トレードオフスライダーもだれも怖がらない。そしてみんな自信を持っている。一度も会ったこともないのにしっかりと議論できている。不思議。
スコープ、品質、コスト、納期。
すりあわせのために、各人が思っているスライダーをみんなで共有しようと提案する。さすが、オレのファシリテーションはいつも及第点をたたき出す。認識のズレ、期待のズレこそがリスクであり、その「差異」を議論することが大事である。見えないものを見える化するのがアジャイルの極意。見えないモノはないか?を思考するのがスクラムマスター最大の関心事だ。
まずは、各人の勝手ななトレードオフスライダーの数値を共有する。ラーメン大好き河合さんと行方さんはまったく一致する。めんどくせえな。お前らは結婚しろよ。おめでとう。彼らとオレの違いはコストと納期の優先度の違い。
オレはコストより納期が優先だと主張する。同人ゲームにおいては「できて、リリースすること」がなによりも優先するはずだ、という思いだ。これはアジャイルの原則でもあり、「だしてなんぼ」という原則において「コストはそれより優先度は下だと」という認識である。これは大事。自信満々。ディスカッションをする。
<三人しかいないプロジェクトで誰かが病気になったら? コロナとか? ベランダから飛び出しちゃうとか? そしたら別の人? それとも納期伸ばすの?>
これは同人作品における根源的な問い。オレはどんな同人プロダクトも作ることに意義があると思っている。芸術は芸術そのものよりも芸術作品を作ろうとする意思を継続することのがほうがあるかに困難であり、そのモチベーション自体を惹起し続けるプロセスこそが影の芸術だと思っている。
「わたしたちは納期を守るために人を増やしたり、必要なツールに課金するよりは納期を延ばす方が自然だとおもう」
これは二人の一致した意見だった。理由はあくまでも「サブ」である同人制作にかけられるMAXの時間を使ってもダメなら人を増やすよりか自分たちやりきれるために納期を延長するほうが納得感や合理性があるという意見だった。一方、オレの意見はプロジェクトは工期が伸びれば伸びるほどプロジェクト管理的なリスクは増大し複雑度はます。アジャイル原則にのっとれはむしろ納期は最速でありたいぐらいだが、オレたちがつくろうとしているもののジャンル的に品質や機能よりは下になる。だが、次点は譲れない。この意見の対立は、対立というよりもみんなみんな、互いの言っていることが「理解できる」という異様な事態となる。結城先生はいっている「事例は理解の試金石」。
「オレがアレで消えてなくなっちゃいました。河合さんと行方さんはどうする?」
極論なので怒られると思ったが、意図を組んでもらえる。楽である。
「人を増やす、人件費相当のコストをふやすより、待ちます、それはこれまでのインセプションデッキより相互に認識合わせてきましたし。やらないことリストでも、夜も眠れない問題でも、すべて見える化されているし。だから、安心していいますけど」
なるほど。すごく筋が通っている。行方さんも同意する。台本があるみたいに綺麗な仕舞い方だったので冗談めかしてオレがいうと二人は「そんなことない」といういう。オレが仕掛け人だとしてもそういう。深くは考えない。オレたちの作品は、大文字の『品質』を作るのだと合意する。全員から見えない熱意が見える。この感じはなかったので嬉しい気持ちになる。
エクリプス制作チームの活動としてオレが提案していたのは『課外活動』である。陰キャのサラリーマンの開発は個と公が数千年光年ほどはなれている。たとえば、会社の仕事をしているときに、エヴァンゲリオンやlainや刑法第三十九条の話はしないのと一緒。変な言い方だが、安心して背中を預けられる仲間なのだろうかということだ。去人たちの作り方は、意図せず、そういう仲間たちがあつまってくれた。だからこそ、タスクを「丸投げ」みたいな雑さでも一定の品質、いや、それを越えた異常性をもった統合ができた。その異常性が、ゲームであり小説を越えた要素だと(個人的には)思っている。
今でなくてもいい。エクリプスチームは互いに「ここ」を越えていけるし「ここ」を超越してくれるような創造力をもったチームであってほしい。
話しているともう二五時。ミーティングの予定時間は超過している。議論はつきない。
オレたち以外がオレたちのようにゲームをつくってくれたオレがそれを消費するだけなら何も困らないのになと少し思う。それか、オレたちがそれらみたいに何かの中間地点に着地してしまうのだろうか。
打ち合わせは最後にふりかえりを行う。みな充実した打ち合わせであること表明する。オレのファシリテーションも好評であった。普段褒めてくれる人がいないのでこれは素直にうれしい。去人たちをつくっているときには gonzou さんにもにちのさんにも叱られたが、それがオレを良い感じに育ててくれたのだと感謝する。打ち合わせを終了し少し頭を休める。ラーメン大好き河合さんと行方さんはお互いのことをよく知っていて作品の嗜好性も相互に理解しあっている。オレはそこに入っていけていないし、二人の言葉なしでも通じるやりとりは羨ましく思う。ATフィールドを展開するオタクとそうでないオタクがいるということなのだろうか。懐に飛び込むのも飛び込まれるのも恐怖ではないのだろうか? オレはオタクとは言わない方がいいか。ただの社会不適合者としておく。些末なこと、考えるのを止める。
打ち合わせは充実していた。その気分のままお酒をいれながら日記ラフを執筆する。ステーティブン・キング・メソッド。必ず毎日十五分でも作業時間をとること、たとえ書けないとしても。今日はハードワークだった、いや、オーバーワークだった。おそらく継続できないことを、社会復帰の恐怖と不安から目をそらすために、狂ったように楽しんだ。やりきった、百点で終わる一日は、その構造自体に大きな欠陥があることに気づく。オレはアドレナリンジャンキーになって意味もなく走り続けた。それはしっくりくる気づきであった。オレはこの病態をテトリス型うつ病と呼ぶことにした。ある期間において、表面の効率だけを追い求めた隙間ないタスクを詰め込みよる心的窒息状態とそこから表れる抑うつ状態。明日のタスクからは「何も考えない」「ぼーっとする」というタスクを作ることにした。何も考えないって悟りを開けるかも知れない。よい気づきである。
二九時。睡眠管理に失敗し、生活リズムは崩れ、ちびちびやっていたつもりが結構な酒量なっている。