kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

6月6日(土)

浅い眠り。頭の中身は流体金属で満たされている。毛布は少し重い。めくると鎖帷子よろしくじゃらじゃらと鳴る。できたらもう一眠りしたいがこのまま横になっていても気絶はできなさそう。
冷蔵庫にあったヨーグルトを食べてぼんやりする。何もしたくない。何もしなければ日記も書かなくて良いし、何もせずに一日が終わる。そんな毎日がずっと続けばオレはなにも成し遂げず優秀な糞袋として一生を終えるだろう。ハッピーエンドのような気がしないでもないが、一応回避するために考え方の方向性を変えてみよう。何事も実験だ。この部屋から出さえすれば状況は変わる。お弁当でも買ってサイクリングに行こう。

なんとか少しだけワクワクをねつ造する。バックウォッシュでランチをテイクアウトしてバックパックに積み込む。ひゃっはー、ペダルを全力でまわすんだい。海外線沿いの道はこれまでも何度も走ってきたが、海に続くたくさんの小道が毛細血管のように何カ所も伸びている。旅ではどうしても通りすぎてしまうが、その袋小路の先を探索するチャンスだ。小道に入ると道幅は一気に狭くなり勾配はきつく、路面は荒れる。時期的毛虫が枝から糸をたらしてぶらさがっているのでヤツらもやっかいである。たかってくる想像をするだけでゾクゾクする。行ったことのない道は頂上標高がわからない。ペースがわからない。せっかくだ、オレを殴る。短距離を想定したペダル回し。汗が一気に噴き出す。顎から汗がしたたる。息が上がる。うねうねと続くコーナーを超えるたびに峠を期待するが裏切られる。良い。足を止める要求を拒否する。指がしびれる。気管支が異音をあげる。時間を喪失する。峠に到達してあとは海まで下っていく。
防波堤に腰掛けてお弁当を食べる。海は灰色。波打ち際の岩場をあるくとフナムシが密集している。歩くたびに正確に退散していく。フナムシたちによるモーゼの海割り再現である。いつかフナムシをかわいいと思えるようになりたい。いや、やっぱり嘘、まだいい。
他の海岸も見て回る。主要道路に戻る。下った分だけ登る。高さはわかっている。ジャブとワンツーをガードの上から連打で殴りつけられるぐらいの負荷をかけて安全に登る。大通りにでる。汗がとまらない。ジャージも汗でぐっしょり。湿度も高いし日差しもないので一向に乾く気配がない。想定外の汗冷え。引き返し家に帰る。

風呂に入って汗をながすと頭がすっきりしている。非占領地からもどったハイテンションを利用して細々とした作業に手を付ける。特別定額給付の申請書を書く。受け取りたくない人がチェックするとは何のための項目なのか? 申請者だけに支給すればよくないか? 否定形の項目に対するチェックは、ユーザビリティからいってもアンチパターン。受給申請するものにチェックにしてチェックをつけさせたほうがより項目の意図、回答者の意図どちらも明白ではないだろうか。意思のない人に十万円を配ってしまうことより、意思のある人に間違って十万円を配れないほうがまずい。給付金の趣旨としてもそうではないか。おやおや、バカみたいに真面目に反論しようとしているオレが情けない。そんなことよりこの奇妙な項目を提案した人々とそれを承認した人々がいるというのが不気味だ。どういった要件だったのか、それとも目に見えない要件を勝手に感じ取ったものたちによる勘違いの連鎖なのか。奇妙で不気味でおぞましい。

手書きで何かを書くという行為は、この世で生きるのを諦めさせるための十の方法のうちのひとつである。今日は土曜日なので何か娯楽に興じたい。Steam を立ち上げたがいまいち気が重い。ユーロ トラック シミュレーター 2 日本語版 |オンラインコード版 の Project Japan Mod がバージョンアップするとかしたとか。「何もしない」というタスクにちょうどよいゲームではあるのだけど、引越後のハンコン設置もまだだし、設置場所も見つかっていない。とりあえずアップデートがあるゲームを更新しておきゲームは諦める。Amazon Prime ビデオのラインナップが更新された。ホラー映画を見たい。死の触覚を感じたい。死にたくないときちんと感じるチャンスがほしい。あとホラー映画はだいたいリア充が爆発する。楽しみだ。ライト/オフ(吹替版)を鑑賞。九十分スマホをいじらせないのはどんどん難しくなっていっている。展開ははやい。「ライトオン」「ライトオフ」の繰り返しが気持ちいい画。途中、水曜どうでしょう激闘!西表島を思い出して笑ってしまうが、こういった「挿入」はオレの個人的な楽しみ方なのでおすすめはしない。

なんとか時間をつぶせたので夕食を食べる。冷やし中華は正義。
風呂に入って執筆作業をする。このまま日記を書いていて良いのか。内観療法としての日記はあまりうまくいっていない。どうしても自然の摂理にしたがってエントロピーの高い方へ高いへと誘導する。その誘導自体の意味するところを分解しなければ、本来の効果は得られない。体験を外部化し捉えるというのはいかにも真面目な方々が好きそうなアプローチだ。記述主義。行為としての書くということは、書かれたこととは乖離された現象を引き起こす。その現象を固定した情報としてひきだして分析なり記述したいのであれば(それはあまり意味がないが)、書く前と書いたあとのオレの差分を観察すればよい。オレの日記は対象を必要としない。オレも読者の対象ではない。日記は安定し、無意味に、どこかにおいておければよい。