kowさんは天ざる大好き

創作に絶望すると、世界が反転した日記

6月14日(日)

予定がない日の目覚めは身体が重い。そういう日は日記も書きたくなくなる。三日、日記を書くのを止めたらアウトだろうなとは感じている。オレの個人的な日記を何故かいているのだろう。日記を書いているときにオレはなぜDeleteキーを押すのだろうか? オレの書く日記は対象読者がオレなのだろうから、オレが読むのに苦労しない程度に意味が通っていればよい。そのためにもDeleteキーは必要なのでしょう。この日記を公の場に置いておく意味とはなんだろう? この日記はなんなんだ? 自明な世界をいったん横に置いておいて、狂った世界に適合させるための遅延言語処理装置で、その結果をもと表れる言語と体験の差異に治療可能性を見出す。よさそうな仮説。オレは過去の日記を読み返す。だけど、よくわからない記述が多い。初期の日記はお酒も飲んでいないはずだしちょっと想定と違う。じっと考えてみるがわからない。登場人物を起点に思考を巡らせる。あやは本当に必要なのだろうか。良くわからない。

十一時に遅めの朝食兼昼食を摂る。身体が重い。感情が動かない。刺激物を探して
死霊館 エンフィールド事件(吹替版) を見る。悪魔払いにおいて悪魔が自分の名前を言う言わないで激しい攻防があったりするのを思い出す。あれ殴り合いでもないしなぜ言いそうになっちゃうかも了解が難しいのでいつもぼんやりしてしまう。拷問と自白みたいな力関係をもっとわかりやすい構図を作って欲しい。悪魔も悪魔ですごい枕詞ついた幹部の悪魔なんだから一個体ぐらいであればパチンと花火ぐらいにはじけさせてもよいのではないあろうか。
オレは頭を抱える。あやが悪魔のように笑っている。オレは何にムキになっている。そんなのは作っている方も見ている方もわかっている。オレがあやに名前を与えたことの方だよっぽど理屈がわからない。この命名行為はむしろオレをあやとの共依存に追い込むのではないか。あやと同居したまま意識的にのりこえようという考えは現実的に思えない。物理的距離をとるという正攻法のほうがいいに決まっている。

日が傾き始めている。もう起きていることができない。布団に横になる。