去人たちを作れなくなったうつ病プログラマーの地方生活日記

創作に絶望すると、世界が反転した日記

6月18日(木)

前日の深酒がオレをダメにしている。アルコールが抜けてないようで酩酊感が残っている。めんどくさい。タンブルウィードでキモサベとの乗馬をする予約をしていた。絶対に遅れてはいけないし、キャンセルもしてはいけない。昔からオレの世界ではそうなっている。アルコールが原因の失敗を一度すると抜け出せなくなる。
足の接地感がない。朝の段取りが簡単に思い出すことができない。着替えてたり、水を飲んだり、食器をあらったり、歯を磨いたり、動線が安定しない。本気の酒量管理の必要性を感じる。約束に遅れそう、忘れ物はないか、オレの身体のどこか欠けていないか、死んでいることを忘れて同じ日常を繰り返していないか、致命的な勘違いをしているのではないか不安を抱えつつ出かける。天気が良い。白色でコントラストのない世界。

タンブルウィードにいくとキモサベが洗い場で待っている。ちょっと眠そうな目をしている。首を愛撫してやる。キモサベは穏やかにふむうと鼻をならす。馬は人をどれぐらいで個体として区別できるようになるのだろう。キモサベに聞いてみるが、のらりくらりと質問をはぐらかされる。耳を伏せて聞いていないフリをしているよう。まだまだ相手にしてもらえてないようだ。やはりもっとニンジンをもってこなければ。
レッスンはぐるぐるまわる。回る方向を変える「手前をかえる」練習。騎乗していると癒やされる。キモサベがどっしりかまえている。男の娘らしさに惚れる。オレもいつかは対等になってキモサベにも喜んでほしいと思う。

レッスンが終わって家に帰る。二日酔いと頭痛と胃がくちゃくちゃになっている。買い置きのヨーグルトを流し込むと布団に横になる。少し身体が楽になる。頭の中のカレンダーを確認する。十七時から産業医との面談、復職可能かどうか。前回の面談から二週間が経つのか。早い。傷病手当金を酒に変える生活はもう終わりにしたい。原点を喪失した地平面で相対距離をはかることもなく、どのようなベクトルで移動しているかも分からず、ただ自力で座標点を宣言する生活。昔はその座標点の精度に根拠なく自信がもてたのだけれど、いまではすこしだけ不安になった。

十六時。だいぶ身体は楽になっている。面談の準備をする。産業医の先生との面談は恥ずかしいからカメラを横におく。これだと視線がわからないので、がっつり視線を外すことへの抵抗感がへる。直近に週間の生活リズム、身体症状、精神症状、トラブルのヒアリング。台本があるみたいにすんなり進む。初見で生活に破綻がなさそうなのが伝わったと考えよう。復職可能という意見書になるとのこと。いよいよ復職。産業医の先生は物腰が柔らかく切々と問いかけてくる、その感じでどうしても先生の視線追ってしまう。声トーンに感じられる言語外の情報に意味を与えるために仕草や視線のデータを補助的に使いたくなってしまう。あえて異様な話し方をして相手を言語世界から身体世界へ引っ張り出すという考えは面白い。自分もどこかの機会でやってみよう。

まともな食事とっていない。夜は冷やし中華。気分転換にタスクが山積みになっているDQウォークをやる。DQウォークが歩かなくてもやることが沢山あるタスクゲーになってしまったのがちょっと残念。それにまんまとはまって義務感のようにレベル上げをしたりレイドと戦ったり。

二十一時からはエクリプスのミーティング。議事録をつくりながら今日は何をしたら良いのかを思い出す。プロダクト五段階のうちの第一段階、「プロット原案作成」の段階。どういったものを作っていくのか、という企画の方向性決める段階。具体的に物語のプロットをもちよってコンペティション形式で選定を進めていく。
ミーティングでは「プロット原案作成」の達成基準を明確にする。テーマ、あらすじ、オチ、主要登場人物が決まっていること、それらがエレベーターピッチに適合していること。まだ物語のディテールには踏み込まない。次にタスクの洗い出し。各人がやってみたいシナリオの案を作る、それらをワークショップでみんなに共有し、いいところ、改良したいところなどの情報を集める。その上で一つのシナリオを選定するのか、改良したり、アイディアを組み合わせたシナリオを作るのか、議論で決定する。選定されたシナリオが詳細だけこだわってしまっているケースを防ぎ、プロジェクトという大きいスコープにおいて俯瞰として正しいことをしていることを確認するためにエレベーターピッチとの適合性をチェックする。
オレはプロットを作るプロセスになじみがないのでラーメン大好き河合さんが普段の仕事の進め方でどうしているかを提案してもらう。
「プロット原案作成」までの道しるべができたので実際にラーメン大好き河合さんと行方さんもちよったプロット案を共有してもらう。あらすじとその結末から、葛藤、対立、成長や和解、浄化に至る要点はなんとなく想像できるし、仕掛けも迫力がある。ラーメン大好き河合さんの作家としての現役感がオーラのように立ち上っている。行方さんのプロット提案は舞台装置とその装置を構成する部品感の相互作用とそれによって引き起こされる物語、人物の反応のアプローチ。装置の動作はジレンマ、不条理をきちんと出現させるし、冷たく粛々と稼働する装置の様子は独特の世界観を期待させる。
オレにはどのプロットも良いと思えた。創作においては「熱量」こそをもっとも大切。熱量においては太刀打ちできない。仮に小手先のデータ重視の物語構築で何かできたとして、オレが楽しくないのが問題だ。熱量が決定的に欠けている。そこが致命的だ。オレは職業作家ではないしそれをやりたいと一切思わない。
ラーメン大好き河合さんはオレにも何か案を提示してほしいと強く要請された。確約はできないけどといって一旦返答する。嘘はいえない。
打ち合わせ終了。睡眠不足もあって直ぐに布団にはいる。打ち合わせの直後は頭がフル回転していてなかなか寝付けない。プロットの提案についてすこし考える。小手先のやり方でデータを蓄積して案をつくるのならばできるだろうかと思う。もしダメでもその分析は理解は今後の企画会議でも使えるかも知れない。それに漫然としているとあの熱量だからおいてけぼりにされるかもしれない。理解を進めるという目的をもって個人ワークをするのは大切だろう。十二歳だったころ、超虚構という雑駁とした用語だけをたよりに @lice とシナリオを続けていた。お互いにゼロから何をつくる能力は低い。筒井康隆を下敷きに思考をする場所だった。その議論自体がエキサイティングで酒もはいって支離滅裂でその体験の異様さだけが十四歳のいまも強く残っている。なんのために去人たちを作っていたのか、思い出せない。創作するという行為においてもっとも大事なのは創作するという意欲を持ち続けること。それが結果的に良い作品を作る。嫉妬や反抗心でつくるのもいいのだけど、そこをきっかけに創作活動をライフワークとしていけるようなモチベーションに変えられる体験をして欲しい。それが作品を受容する側のメリットにもなる。情報の流通速度の革新は九十年代の創作者、受容者から本質的な時間を奪ってしまったような気がする。その進化を受け止めてそれを自分の脳であり身体の一部として扱えるようには未だに成長できていない。作り手にも消費者にも期待しない。今、彼らは自然すぎる。血管を切れば血が噴き出すように、彼らはある意味においてとても自然でそこに期待はない。でも、それはオレが病気で悲観的だからかもしれない。オレはゼロ年代に九十年代の生き方をして十年代にゼロ年代の生き方をしていたような気がする。大きな物語が明確に失われたゼロ年代、去人たちをつくりあぐねてもがき、十年代半ばには、物語たちが炎上し焼け落ちた無残な屋台骨だけさらしつづける荒野に立っていることに気づいてに絶句した。オレが変わることを放棄し、世界が変わってくれればという投げやりな態度に陥ってからはただただ世界が滅ぶのを待ち望んでいた。でも、世界は滅びなかった。復職可能だろうと不可能だろうと、そこの根にある言い表せない失望感は消えない。伝えようとすら思わない。
眠る。